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音楽、芸術、文化の都!オーストリアの世界遺産ウィーン歴史地区に行ってみよう!

今回ご紹介するのはオーストリアの首都、「音楽の都」ウィーンのウィーン歴史地区です。

古代ローマ帝国の軍事拠点「ウィンドボナ」が起源とされているこの町は、中世以降はハプスブルク家=神聖ローマ帝国のお膝元として大いに栄えました。

華やかな貴族文化を持つ音楽の都ウィーンの歴史を踏まえ、ご紹介していきます。

ウィーンの歴史

神聖ローマ帝国、オーストリア帝国の都であったウィーンは、華麗な歴史に彩られています。
元々は古代ローマの軍事拠点で、五賢帝最後の一人、マルクス=アウレリウス=アントニヌスの終焉の地でもありました。

西暦976年までは片田舎の村でしかなかったウィーンですが、オストマルク辺境伯領としてバイエルンから独立した後、徐々に発展を始めます。

その後、西暦1096年からの十字軍の遠征が戦争特需をウィーンにもたらします。
ドナウ側の水運を利用した物流、交易の拠点としてここからウィーンは大きく発展していきました。

西暦1155年にはオーストリア辺境伯ハインリッヒ2世が居城をウィーンに移しました。
翌年の1156年にはオーストリア辺境伯爵からオーストリア公爵へと爵位が昇格します。
西暦1221年には関税特権を獲得し、この税収を財源に都市を拡張させていきました。

西暦1246年からはボヘミア王兼オーストリア公オタカル2世の統治下に置かれ、市民の経済的自由が認められた事から中欧の商業都市としての地位を築き上げます。

オタカル2世は神聖ローマ帝国の皇帝候補だったのですが、その強大な影響力を恐れた選帝侯達は弱小貴族であったハプスブルク家のルドルフ1世を神聖ローマ皇帝に据えます。

これが元でボヘミアとハプスブルクの戦いが起こり、西暦1278年のマルヒフェルトの戦いでオタカル2世を敗死させた後はハプスブルク家がウィーンを治めます。

それまでの統治者と違い、財政基盤が弱かったハプスブルク家はウィーンからの税収を上げる為、市民の自由を制限した為、当初ウィーンはハプスブルク家に反発し、何度か反乱を起こしています。

14世紀の「建設公」ルドルフ4世(在位1358~1365)の時代にハプスブルク家は「大公」を自称し始めます。
この時まで大公という位自体が存在しておらず、ルドルフ4世の主張は司教を統括する大司教がいるのなら公を統括する大公がいるはずだというものでした。

神聖ローマ皇帝カール4世に対して提出した大公位の根拠となる特権の証拠品は古代ローマ皇帝ジュリアス・シーザーからの手紙と皇帝ネロからの手紙が含まれており、偽造されたものであることは明らかでしたが結局これを元に以降のハプスブルク家当主はオーストリア大公を名乗る事になります。

ルドルフ4世は先進的な考えを持った君主で、ツンスト廃止令を出し、ギルドが持っていた特権を奪った他、聖職者と貴族の免税特権の廃止、教会裁判権の制限などの先進的政策を次々に実行しました。

またシュテファン大聖堂などの施設も数多くこの時代に建設されました。
しかし、ウィーン自体は1348年頃に流行したペストの影響で経済成長が鈍化した時期でもありました。

長いウィーンの歴史の中で、大きな脅威となっていたペストはしばしば流行し、ウィーン市民の多くの命を奪いました。
後の事ですが、1679年に流行した際は10万人が死亡したとも言われています。

もう一つのウィーンに対する脅威はオスマントルコ帝国でした。
オスマントルコ帝国は二回にわたってウィーンを包囲しましたが、どちらもウィーンを陥落させる事はできずに撤退しています。

しかし、この頃のヨーロッパの中心地でもあったウィーンが異教徒の軍勢によって包囲されたという衝撃は大きく、大規模な城壁の拡張が行われました。

この時建てられた拡張城壁と旧来の城壁の間にはシェーンブルン宮殿や、ベルヴェデーレ宮殿などの華やかな宮殿、邸宅が建設されました。

オスマントルコ帝国を退けた後のウィーンは経済的にも繁栄を極め、文化、芸術のパトロンとして各地から芸術家を集めました。
このことから現在でも音楽の都と呼ばれ、クラシック音楽の中心地となっているのです。

ウィーンでは外から領主を迎え入れてきた経歴に加え、交易で発展したことや、ユダヤ人の商業ネットワークを利用するために宥和政策を採っていたことが影響し、早くから国際的都市の性格を持っていました。
ドイツ語の他、チェコ語、ハンガリー語、イタリア語、ポーランド語、イディッシュ語などの多言語が飛び交っていたと伝わっています。

第一次世界大戦で敗北したことからハプスブルク家は滅亡し、オーストリアは共和制になります。
第二次世界大戦ではアンシュルス(独墺合邦)によってナチスドイツ第三帝国に組み込まれ、オーストリアは消滅してしまいます。

第二次世界大戦後、オーストリアでは共産主義は根付かず西側自由主義陣営に留まりましたが、鉄のカーテンと呼ばれる東西遮断政策によって経済基盤でもあった東側の旧ハプスブルク家領との繋がり断たれてしまいます。

現在は中欧の国際都市としての性格を取り戻し、主要な国際会議も数多くウィーンで開かれています。

代表的建造物

ホーフブルク宮殿

オタカル2世によって建設されたと言われているこの宮殿は、現在ではオーストリア大統領公邸やシシィ博物館として使用されています。

帝国時代には皇帝の冬の主宮殿として使用されていました。
1938年にはこの場所でナチスドイツのアドルフ・ヒトラーがオーストリア併合を宣言しています。

ベルヴェデーレ宮殿

イタリア風の名前を持つこの宮殿は、オーストリアの有名な将軍、プリンツ・オイゲンの邸宅として建設されました。
プリンツ・オイゲンはハプスブルク軍を率いてヨーロッパの各地で活躍した将軍で、ネーデルラント総督(現在のオランダ)、イタリア副王を務めていた事もあります。

彼には相続人がいなかった為、死後宮殿を含む財産はハプスブルク家の所有となりました。
現在ではオーストリア絵画館となっています。

シェーンブルン宮殿

皇帝の夏の離宮として造営されたシェーンブルン宮殿は、美しい(schön)泉(Brunn)があったことからそう命名されたと言われています。

広大な敷地には広い庭園があり、中には日本式の庭園もあることで知られています。
宮殿内部には1400以上の部屋があり、かつての皇族の優雅な暮らしぶりが窺えます。
40部屋は公開されていて見学することが可能です。

黄色い外壁はテレジア・イエローと呼ばれているそうですが、女帝マリア・テレジアが望んで黄色にしたというわけではなく、元々は金箔を貼ろうとしていたところ財政を考慮して金色に近い黄色に塗ったというエピソードが伝わっています。

また、モーツァルトとマリー=アントワネットの有名なエピソードの舞台になったのもこの宮殿です。

シュテファン大聖堂

ゴシック式とバロック式を併せ持つ大聖堂で、14世紀に建設されました。
ウィーン大司教座が置かれている由緒正しい教会です。

シュテファンスプラッツ(シュテファン広場)に位置するこの大聖堂の尖塔は137メートルあり教会の尖塔としては世界で三番目の高さがあるそうです。

地下のカタコンベには2000体の遺体と王家の人々の心臓以外の内臓が保管されており、1日数回、内部を見学することができます。

シュテファンスプラッツの西側、※OMEGAとZARAの間を抜けていく通りの先にはペスト終息を記念して建設されたペスト記念塔もあり、そちらも観光スポットになっています。
※2018年3月確認。店舗は移転する場合もあります。

ウィーン大学

ウィーン大学は建設公ルドルフ4世が神聖ローマ皇帝カール4世に対抗して創立した大学で、ドイツ語圏ではプラハのカレル大学と並び最古の大学です。

この大学も世界遺産に含まれており、ノーベル賞受賞者も多数輩出しています。

ウィーン市庁舎

フリードリッヒ・シュミットプラッツ(フリードリッヒ・シュミット広場)に位置するこの建物は、19世紀後半に作られました。

地下はラートハウスケラー(市庁舎の地下)と呼ばれており、こちらも文化財として登録されている他、美術品の展示も行われています。

市庁舎の尖塔頂上にはラートハウスマンと呼ばれる騎士像が立っています。
ラートハウスマンは現在ではウィーンを象徴する物の一つとなっており、市のパンフレットなどにも描かれています。

市庁舎と広場を挟んだ反対側には、ドイツ語圏で最高の格式ある劇場、ブルク劇場があります。

役立つ情報&豆知識

こちらではウィーン観光に役立つ情報や豆知識をお伝えします。

ザッハトルテ

ドイツ語の名前を持つこのチョコレートケーキ、元々はウィーンのホテル「ザッハ-」で生まれたものだそうです。
現在でもホテルザッハ-のカフェでオリジナルのザッハトルテを食べる事ができます。

宿泊客以外でも利用できますので、甘い物が好きな方は訪れてみてはいかがでしょうか。

ホテルザッハ-はホーフブルク宮殿の南東、シュテファン大聖堂の南にあります。
ウィーン国立歌劇場の北側真向かいにあたります。

最寄りの地下鉄駅はカールスプラッツですが、シュテファンスプラッツ駅とのちょうど中間地点にあたりますのでどちらからでもそう代わりはないかと思います。

プラ-ター遊園地

ウィーン市内のプラ-ター公園には遊園地があります。
ここには世界最古と言われる大観覧車もあり、ウィーン市内を一望することが出来ます。
3月から10月までがシーズンで、入場は無料です。

アトラクションによって異なる料金をそれぞれ払うタイプですね。
大観覧車は日本でイメージする観覧車と違い、小さくて丸いものではなく、中に10人くらい入れそうな大きな部屋のような観覧車です。

私は8月の平日の夜に訪れましたがわりと空いていました。
休日の昼間は混雑しているのかもしれません。

プラ-ターシュテルン駅を出るとすぐ目の前にありますので、迷うことなく行けるのではないかと思います。

最後に

いかがでしたか。

これをきっかけにオーストリア、ウィーンに興味を持って頂けたなら幸いです。
長くハプスブルク家のお膝元として栄えたウィーンには、世界遺産以外にもいろいろな観光スポットがあります。

音楽、芸術、文化の都として有名なウィーンは、20世紀には一時期衰退してしまった時期もありましたが、21世紀に入ってからは東欧諸国の成長を背景にヨーロッパの東西を結ぶ中心地として、経済センターの地位も確立しつつあります。

ウィーンに限った事ではありませんが、ドイツ語圏では英語が通じやすいこともあり、私達日本人にとっては訪れやすい旅行先でもあります。

同じドイツ語圏でありながら、ドイツとオーストリアではかなり印象が異なっています。
是非ウィーンを訪れて、オーストリア文化をお楽しみ下さい!