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深い歴史を持つイタリアの世界遺産!ヴェネツィアとその潟を徹底解剖!

今回ご紹介するのは世界遺産、イタリアの「ヴェネツィアとその潟」です。
※以下、文中ではヴェネツィアと記載します。

皆さんはヴェネツィアについてご存じでしょうか。
地中海の女王とも呼ばれていたヴェネツィアは中世ヨーロッパにあって、地中海の制海権を押さえ、東西交易で莫大な利益を出し、長年地中海に君臨していました。

他の領邦国家と比べ、領土は遙かに小さいヴェネツィアは主に経済力と外交力で地中海に君臨していたのです。
そんなイタリアの世界遺産、ヴェネツィアとその潟の魅力について、歴史を踏まえながらご紹介していきたいと思います。

ヴェネツィアの歴史

ヴェネツィアはアドリア海に浮かぶ湿地帯だらけの島と潟から出来ています。
この潟の事をイタリア語ではラグーナと呼びますが、ラグーナに人々が住み始めたのは5世紀頃と言われています。

西ローマ帝国が滅亡した後の、ゲルマン民族の大移動によって土地を終われた北イタリアの市民が戦乱と略奪を恐れてトルチェッロ島に逃げ込んだ時から、ヴェネツィアの歴史は始まりました。

ラグーナは非常に足場が悪い湿地帯の為、イタリアに侵入したゲルマン人から逃れるのには格好の土地だったのです。
外敵の侵入を防ぐ為に、土地の干拓を禁止し、平常時には船の通りを示している杭を、非常時には抜けるようにするなど、逃れてきたラグーナを守る為にいろいろな工夫が考えられました。

やがてヴェネツィアはラグーナの12の島から選ばれた護民官による政治が行われるようになり、次第に自治意識が高まっていきました。
西暦697年には初代総督(ドージェ)が選出され、共和制の国家が誕生しました。

誕生してすぐのヴェネツィア共和国では、有力者が世襲政治を行おうと画策するなど、内部の政情が不安定な状態が続きました。
また、親東ローマ帝国派、親フランク王国派、親ランゴバルド派、独立派などの派閥に分かれていた為、クーデターも起きかねない非常に危険な状態だったのです。

8世紀のヴェネツィアはこのように不安定な政情ではありましたが、アドリア海交易に本格的に乗り出し、造船技術、航海技術とも大きく発展しました。
このことが後のアドリア海の女王を生み出す原動力になるのです。

西暦803年に、フランク王国のカール大帝を東ローマ帝国のニケフォロス1世によって、未だに名目上は東ローマ帝国領となっているヴェネツィアが、事実上の独立国家であることが確認されました。

西暦804年に就任した新しいヴェネツィアのドージェはフランク王国に臣従する方針でしたが、このことがフランク王国のピピンによるヴェネツィアに対する攻撃を招いてしまいました。
西暦810年にヴェネツィア共和国はフランク王国軍を退け、これ以降はナポレオンによるヴェネツィア滅亡まで独立を保ち続けました。

またこのときにフランク王国と東ローマ帝国の間で結ばれた条約により、ヴェネツィアは東ローマ帝国、フランク王国両方との交易権が認められた為、交易国家としての土台ができあがりました。

西暦828年、ヴェネツィア共和国はエジプトのアレクサンドリアにあった、マルコによる福音書を記したキリスト教の聖人、聖マルコの遺骸をムスリムによる被害が守る為と称し、奪い去ります。
聖マルコの遺骸があることを理由に、ヴェネツィア共和国の守護聖人は聖マルコとなりました。

実際にはこの当時、ヨーロッパ各国では国の守護聖人を持つ事が流行っており、その為には聖人の聖遺物を手に入れる必要があった為、聖マルコの遺骸を強奪したのではないか、という説もあります。

この頃、ヴェネツィア共和国は、スラブ系、アラブ系の海賊を撃退し、アドリア海の制海権を握ることにも成功しました。
マケドニア朝東ローマ帝国皇帝、バシレイオス2世ブルガロクトノスの金印勅書によって、ヴェネツィア商人は東ローマ帝国の商人ですら認められていない、免税特権を獲得しました。

これをきっかけにヴェネツィア共和国の目はイタリア半島ではなくアドリア海に向けられることになります。
東ローマ帝国との交易で莫大な利益が上がることから、ヴェネツィア商人は先を争って東方に進出して行きました。

10世紀後半以降はムスリムとも商業条約を結び、宗教の壁を越えた交易を開始します。
これはヴェネツィア共和国が宗教的に寛容だったという事ではなく、争いよりも商売を優先しただけにすぎなかったのですが、結果として莫大な利益を生み出すことになりました。

11世紀のローマ教皇グレゴリウス7世と、神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世の聖職者叙任権闘争ではヴェネツィア共和国は中立を貫いた為、教皇庁との関係が悪化します。

この頃大きな力をつけていたヴェネツィアは、弱体化した東ローマ帝国からアドリア海沿岸の防衛を委任され、それと引き替えにアドリア海の支配権、東ローマ帝国全土でのヴェネツィア商人の免税特権、そして、遂に名目上も東ローマ帝国からの独立を獲得しました。

西暦1204年、第4回十字軍として出撃したヴェネツィア艦隊は、十字軍をそそのかし、攻撃対象を東ローマ帝国に変更させました。

ヴェネツィアにそそのかされた十字軍は東ローマ帝国の首都、コンスタンティノープルを攻略し、ヴェネツィアはクレタ島やロードス島など、ギリシャ周辺に海外領土を獲得しました。
この事件をきっかけに、ヴェネツィアは東地中海を制圧します。

アドリア海からエーゲ海まで広がる東地中海ネットワークを手にしたヴェネツィアは、中東方面からの地中海交易を独占し、強大な海洋国家に成長していきました。

国家が成長するにつれ、有力貴族達は政治の再び政治の世襲を企て始めましたが、これは失敗に終わりました。
13世紀の後半からは西地中海の王者、ジェノヴァとの長い戦いが続きました。
100年近く続いたこの戦いは、1381年にヴェネツィアが勝利を収めました。

これは個人戦のジェノヴァと、集団戦のヴェネツィアの差から来る勝利と言われています。

ジェノヴァを破ったヴェネツィアの前に、地中海ではもう敵となる存在はありませんでした。
ここに地中海の女王が誕生したのです。
この14世紀後半からヨーロッパ最強の海軍国家となったヴェネツィアの繁栄はピークを迎えました。

繁栄のピークを迎えたヴェネツィアでしたが、西暦1492年のアメリカ大陸到達と、西暦1497年の喜望峰発見によって地中海交易の比重が下がり始めます。

また15世紀半ばにオスマントルコ帝国が東地中海に進出を始め、ヴェネツィアの海外領土を徐々に侵食していきました。
西暦1538年にはプレヴェザの海戦で、オスマントルコ帝国はスペイン・ヴェネツィア・教皇庁連合艦隊を撃破し、東地中海の制海権を抑えました。

西暦1571年、レパント沖で再びオスマントルコ帝国とスペイン・ヴェネツィア・教皇庁連合艦隊が戦いました。
有名なレパントの海戦です。
この海戦でオスマントルコ帝国は大敗し、西地中海への進出には歯止めがかかったものの、海戦後、足並みを揃える事ができなかったスペイン・ヴェネツィア・教皇庁は東地中海の制海権奪取の機会を逃してしまい、ヴェネツィアの衰退は止められない状況に陥りました。

西暦1797年、ナポレオンの進軍によってヴェネツィア共和国は滅亡しました。
栄華を誇った女王も、遂に引退する時が訪れたのです。

その後はオーストリア領となり、一時期は再び独立しましたが、最終的に西暦1866年の普墺戦争に乗じて、イタリア王国がヴェネト地方を占領し、ヴェネツィアもイタリア王国に編入されました。

代表的建造物

サンマルコ広場

ドゥカーレ宮殿やサンマルコ大聖堂のあるヴェネツィアで最も大きい広場です。

海からの玄関口にもなっているこの広場は、ナポレオンが「世界で最も美しい広場」と言い残した事でも有名です。
世界中から観光客が集まるヴェネツィアの、最も観光客が多いスポットだけあって、本当にいつでも観光客で溢れかえっています。

また、観光客以上に鳩の数が多いことでも有名です。

広場を囲む回廊型のアーケードには、ヴェネツィア名物のレースやガラスのお土産屋さんが数多くあります。
両替屋もありますので、大抵の用事はこの広場で済ませることが可能です。

ただ、他と比べると少し値段が高めです。

サンマルコ寺院

サンマルコ広場に面しているビザンティン式の大聖堂で、ヴェネツィアの守護聖人、聖マルコが祀られています。
もともとの教会は西暦828年に建設されましたが、その後消失してしまい、現在の大聖堂は西暦1063年に着工されたものです。

西暦1090年頃、初期の大聖堂は完成しましたが、その後も増改築が繰り返されました。

サンマルコ寺院の正面ファサードには、西暦1204年にコンスタンティノープルから奪ってきた4頭の馬の像のレプリカが置かれています。
内部は海の女王の礼拝堂に相応しく、絢爛豪華な装飾が施されています。

サンマルコ寺院はカトリックの大司教座が置かれている教会なので、本来はサンマルコ大聖堂というのが正しいのですが、西暦1807年までは共和国ドージェの礼拝堂だったため、歴史的に長くサンマルコ寺院と呼ばれていたことから現在でも大聖堂ではなく、サンマルコ寺院と呼んでいるそうです。

ドゥカーレ宮殿

ヴェネツィア共和国ドージェの宮殿です。
サンマルコ広場に面したこの宮殿では、歴代のドージェが政治を行っていました。

運河を挟んで対岸の牢獄とも繋がっていて、この牢獄へと繋がる橋はためいき橋といいます。

これは、牢獄に収監される囚人が、最後にみるヴェネツィアの美しい景色がここを通る時に見る景色なので、通る囚人がためいきをつくという話があった為にこのような名前になりました。

また、この橋の下でゴンドラに乗って、日没にキスをすると、永遠の恋が叶うという伝説もあり、恋人達のあこがれのスポットにもなっています。

カナルグランデ

ヴェネツィアの町を2つに分けるようにS字に走っている大運河です。
この運河の周りには古い家が建ち並び、非常に風光明媚な景色となっている為、「世界で最も美しい通り」などとも呼ばれています。

リアルト橋

カナル・グランデにかかる4つの橋の中で最も古いのがこのリアルト橋です。

別名を白い巨象ともいうこの橋は、当初は木製の跳ね橋だったのですが、カーニバルの見物客が多くあつまった時に崩落したり、火災で焼失してしまうことがしばしばあった為、16世紀に現在の石造りの橋が架けられました。

役立つ情報&豆知識

こちらではヴェネツィア観光に役立つ情報や豆知識をお伝えします。

ムラーノ島

ヴェネツィアのお土産にはヴェネツィアングラスが最適です。

ムラーノ島はヴェネツィアングラスの生産地になっている島で、多くのガラス工房がありますし、もちろん多くのガラス工芸品屋さんがあります。

値段もムラーノ島の方が安く、店が多い事からデザインも選び放題です。
無料でガラス作りを体験できる事もありますよ。

ブラーノ島

もう1つのヴェネツィアを代表する名物がヴェネツィアンレースです。
ブラーノ島はヴェネツィアンレースで有名なのがこのブラーノ島なのです。
ブラーノ島は本島からヴァポレット(水上バス)で45分ほどかかります。

しかし、1本の糸から立体的なレースが編み込まれていく、正に芸術としか言い表せない
姿を見ることもできます。

そしてムラーノ島のガラス製品と同じく、ブラーノ島のレース製品もこの島で買うのが一番安く、種類も多くなっています。

最後に

いかがでしたか。
これをきっかけにイタリアの世界遺産、ヴェネツィアに興味を持って頂けたなら幸いです。

ヴェネツィアは毎日100万人の人が滞在していると言われていて、確かにいつ訪れても非常に多くの観光客で溢れかえっています。

また、イタリアでは例外的に治安も非常に良く、夜に女性が一人歩きしている姿も良く見かけます。
この町で過ごしているとまるで別の世界に紛れ込んだかのような、何とも言えない幸せな気分になれるという方もいらっしゃいます。

長い歴史を持ち、ヨーロッパ最強と言われるほどに繁栄したヴェネツィアは、その街並みも美しく、訪れる人々を魅了します。

実は私が一番好きなのはジュデッカ島で、ヴェネツィアに行くときにはいつもこの島に滞在しています。
この島には特に何かがあるわけではないのですが、この島の東端から見る、日没から夜にかけての本島の姿はとても美しいのです。

サンマルコ広場の鐘楼と、ドゥカーレ宮殿、サンマルコ寺院、そしてサンタマリア・デラ・サルーテ聖堂を長めながらラグーナの岸でワインを飲んでいると、もうこのままヴェネツィアに住んでしまおうかと思ってしまうくらいです。

ローマやフィレンツェなど、数多くの魅力的な町を持つイタリアの中でも、一番魅力的な町がヴェネツィアです。
イタリアにご旅行の際には是非ヴェネツィアにも足をお運び下さい!