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巨大ピラミッドはエジプトだけではない!メキシコの世界遺産、古代都市テオティワカンを徹底解剖!

 

「ピラミッド」と聞いて真っ先に思い浮かべる国はどこでしょうか?

ほぼ100%の確率で「エジプト」という答えが返ってくることでしょう。ところが、ピラミッドは何もエジプト特有のものではなく、世界各地で見つかっているのです。今回ご紹介する古代都市テオティワカンもその一つ。

エジプトのピラミッドとの共通点は、神殿としてその建設の歴史に“神”が絡んでいること。人によってはその容姿から、エジプトのピラミッドよりもさらに神聖な場所だと感じる方もいるほどです。

意外と知られていない『古代都市テオティワカン』の魅力を、この度は徹底解剖していきます。

テオティワカンとは?

メキシコの首都メキシコシティより50キロメートルほど離れた場所に位置する『古代都市テオティワカン』は紀元前2〜6世紀という長い間存在した都市です。

名称の「テオティワカンは」ナワトル語で“神々の都市”や“神々の座所”がありますが、この名前はアステカ人がこの地にやってきてこの古代都市を見つけた際に名付けたもので、その当時はすでに12世紀でした。

古代都市テオティワカンの歴史を考えると、比較的新しい時期にやっとのこと命名されたことがわかります。

当時この古代都市テオティワカンは都市国家として栄華を極めており、人口は15万人から最大時は20万人を超える規模があり、その規模はかのローマ帝国におけるローマに勝るとも劣らない規模の都だったとも言われています。

建築様式がタルー・タブレロであったことや副葬品の種類などから、交易を通じてマヤと積極的に交流を図っていたことが分かっていますが、これはほんの一部にすぎず、広範囲にわたってメソアメリカ地方とも積極的に交易を行っていました。

その証拠に、グアテマラからテオティワカン特有の土器が発見されたりグアテマラでのみ採集可能なヒスイをあてがった装飾品がテオティワカンで発見されたことがあります。また、火山の噴火によりできあがったこの古代都市テオティワカンはその恩恵として「黒曜石」の産出地として君臨していました。

宝石としてだけでなく武器や調理用具の製造にとても重宝される黒曜石を主とし貿易を盛んにすることで、テオティワカンは莫大な富を得ていました。

メソ・アメリカ(メキシコからコスタリカにかけた地域)に数百~数千存在すると言われる遺跡やピラミッドの中で古代都市テオティワカンが異彩を放っている理由として、規模の大きさとその美しく区画整理された構造が挙げられます。

古代都市テオティワカンに到着して真っ先に目に飛び込んでくるのが「太陽のピラミッド」と「月のピラミッド」に代表される多数のピラミッドや城塞、そして「ケツァルコアトル神殿」や「死者の道」が見えます。

また、古代都市テオティワカンを訪れた際には必ずピラミッドの頂上まで登ってください。その頂上から見下ろした際に見える、美しく区画整理され理路整然と並ぶ遺跡群はまさに壮観です。

長さ4キロメートル・幅40メートルにも及ぶ「死者の大通り」と中間地点とし、両脇に600〜700はあると言われる遺跡が並んでおり、その美しさにはただただため息が出るばかりで、何時間でもながめていられる心地になります。

太陽のピラミッド

高さ74メートル、底辺はほぼ正方形の225メートル×222メートル、頂上までの階段は地上から248段もあるこの巨大なピラミッドは、世界第3位、メキシコ国内でもチョルラについで第2位を誇ります。

その大きさは見た目だけに止まらず内部までにおよび、太陽のピラミッド内にさらに古いピラミッドが存在しているほどです。
当時テオティワカン人はとても高い文明を持っており、区画整理された構造と並んでピラミッドのその設計もきちんと理にかなったものとなっています。

かつては神殿が立っていたために平坦になっていると考えられている頂上は、夕刻時に太陽がその頂上の真正面に沈んでいくように、また年2回の周期で天頂点に太陽が達する際にその位置がまさにピラミッドの真上にくるようにきちんと設計されています。

このピラミッドが「太陽のピラミッド」と呼ばれる所以はここにあり、太陽を崇拝していたテオティワカン人の宗教観を示しています。

月のピラミッド

高さ46メートル、底辺は150メートル×140メートルの月のピラミッドは、古代都市テオティワカンにおいて太陽のピラミッドに次ぐ第2位の大きさを誇ります。

ただし、その土台は隆起した土地の上に建てられているため、見た目の高さは太陽のピラミッドと大差ありません。
ピラミッドの眼前には階段付きの基段群に囲まれた敷地が広がっていることから、大規模で重要な宗教的行事は太陽のピラミッドではなく月のピラミッドで施行されていたと考えられてます。

地面からピラミッドの頂上へといざなう階段からは「死者の道」や雄大な遺跡群の全景が見下ろせます。

ケツァルコアトル神殿

ケツァルコアトルは農業や文化と関係が深く最も人気のある豊穣の神として挙げられ、その不型は鳥と蛇を合わせた羽毛の生えた蛇の姿をモチーフとしています。

名称にもあるようにこの建造物は神殿ですが、その姿はケツァルコアトルと雨の神トラロックとの一面がピラミッドの壁面に描かれています。
今でこそ色褪せてしまっていますが、当時は彩やかな色が施されており、羽毛の生えた貝のモチーフなどが散りばめられたその壁面はとても壮大な眺めであったと言われています。

また神殿内のピラミッドは6層にまで及び、その他別のピラミッドも手前に見ることがあります。

死者の大通り

アステカ人が古代都市テオティワカンにたどり着いた時に、この大通りの両側の建造遺跡を王の墳墓と勘違いしたこと、またその大通りから多くの遺体が発見されたことから「死者の大通り」と名付けられました。

先述の通り、その大きさは幅40めーとる、全長4キロメートルにも及ぶメインストリートです。
この「死者の大通り」にはいくつかの謎が存在します。

・美しく区画整理されているテオティワカンにおいて、この「死者の大通り」に限って真北から15度30分も東側に傾いているのです。その構造から偶然ではなく意図してそのようになっていると考えるのが普通ですが、ジェラルド・ホーキンズ教授の唱える「シリウス・プレアデス軸」説やスタンズベリー・ハガー氏の唱える「天の川」説など諸説唱えられるばかりで、謎の解明には至っていません。

・死者の大通りに対して、直角に交わる東西の道の存在が判明しました。理由には諸説ありこの東西に伸びる道は東はシリウスへと、西はスバルへと伸びているとも方向になっていると言われていますが、真相は解明されていません。

・この「死者の大通り」がそもそも大通りではなかったのではないかという興味深い説も存在します。もともとは水が貯められた巨大なプールのようになっており、その貯水の動きから地震を感知していた「地震計測器」の役割を果たしていたという説も存在するのがおもしろいですね。

無事運行するかに見えた太陽と月だが、いつまでたっても動かない。ナナワツィンは、自分に血が捧げられるまで動かないという。こうしてアステカでは、毎日人間の心臓と血が生け贄として捧げられることになる。

古代都市テオティワカンの歴史

テオティワカンの起源がいつなのか、正確には未だに判明していません。

紀元前200年頃には小さな祭壇が置かれていただけのテオティワカンが、急激に巨大化し出したのは紀元0年頃と言われています。この頃の人口についても諸説あり、20,000人~100,000人まで幅広い主張があります。

紀元0年頃からのテオティワカンの年としての成長は、大きく4期に分けられます。

第一期 西暦0年~西暦150年頃 

この時期にはメキシコ盆地の他の年が火山噴火などの影響で衰退し、人々はテオティワカンに移り住みました。

この150年間、テオティワカンの人口は爆発的に増え続け、重要な宗教施設である太陽のピラミッドと月のピラミッドが建設されました。

第二期 西暦150年 ~ 西暦200年頃

テオティワカンの中心部を南北に貫くメインストリートの「死者の大通り」が建設されました。

この頃には他地域からの人口流入は落ち着きましたが、自然増での人口増加は続いていました。

この時期に大規模なメインストリートが建設された事は実はこの地域の文明としては非常に特徴的な事で、メソアメリカの他文明による都市の発展は段階的に行われ、このように一番最初にメインストリートが作られると言うことは無いのです。

続く第三期、第四期で明らかになるのですが、このメインストリート建設は、明らかな都市計画の下で進められたと見られています。

第三期 西暦200年 ~ 西暦350年頃

この時期には都市環境が整備されていきました。

既に建設していたメインストリートを軸に碁盤目状にテオティワカンの市街地は広げられたのです。

平安京の建設が西暦794年ですから、それよりも400年以上前に、テオティワカンでは碁盤目状の都市計画が立案されていた事になります。

このような都市計画は構成のマヤ・アステカ文明には見られず、テオティワカン文明独自のものである点が、歴史学上の謎の1つとされています。

この時期には、生活インフラ、産業インフラ、交通、宗教、軍事といった全ての環境整備が進められ、テオティワカンはますます発展を続けて行きました。

第四期 西暦350年 ~ 西暦650年

この時期のテオティワカンは人口20万を超える世界有数の大都市となっていました。

西暦550頃がピークと言われていますが、その頃の人口は20万人を越える世界的大都市となっていました。

同時期の世界の他の都市と比較しても、20万人以上の人口を有する都市は2つしかありません。

東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルと、そのライバルササン朝ペルシアの首都クテシフォンのみが人口40万人を擁する他は、テオティワカンよりも人口の多い都市というのはどこにもありませんでした。

この最盛期にはメキシコ盆地の全人口の90%以上がテオティワカンに住んでいたと言われています。

そのように隆盛を誇ったテオティワカンですが、7世紀頃突如として歴史上からその姿を消してしまいました。

天変地異や内紛が原因ではないかと言われていますが、未だに真相は解明できていません。

14世紀にアステカ人がこの地を訪れた時、テオティワカンは既に壮大な廃墟となっていましたが、アステカ人はここをかつて神々が住んでいた町とみなし、崇拝の対象としました。

スペイン人達はこの遺跡に興味を示さなかった為、破壊や略奪が行われず、遺跡は良い保存状態のまま現代に残る事になりました。

最後に

テオティワカン文明にはまだ文字が伝われておらず、テオティワカンに関する諸説や伝説はアステカ人により16世紀以降に伝えられたものです。そのため私たちの知らないテオティワカン文明は現在見つかっている分の2倍はあると考えられています。

答えがすでに分かっているものを見ることも、その歴史を学ぶことで楽しめますが、こうして答えのない謎を目の当たりにして自分なりの想像を膨らませるのもまた違った楽しみとも言えます。

古代都市テオティワカンが美しいことには変わりはないので、その容姿を楽しみながらも今回ご紹介した情報を元に、あなたなりのストーリーを膨らませてみてください。