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人々を魅了してやまない中国の世界遺産!歴史を肌で感じる万里の長城を歩いてみよう!

万里の長城とは?

名前だけは知っていても、どういうものなのかご存じない方もいらっしゃると思いますので、はじめに万里の長城とは一体どういうものなのかをご説明いたします。

万里の長城とは長く、帯状に続く城壁で、その総延長は6000キロメートル以上という巨大な建造物です。
万里というと、我々日本人の感覚では1理4キロメートルと考えてしまいますが、古代中国では1里は400メートルから500メートルでした。

その為、4000キロメートル以上あれば万里を名乗っても違和感が無い事になります。
もっとも万里の長城の場合の『万里』は、「非常に長い」と言う意味だったのかもしれません。

実際に数多くの詩人が龍に例えてきたことからも分かる通り、まるで山の上を龍がうねっているようなこの万里の長城は全盛期に全長が2万キロもありました。2万キロというとピンときませんが、実はこれ地球の直径の約半分にあたります。

一国に存在する長城にしては驚きの長さですよね。しかし現在はだいぶ短くなり、万里の長城は約6000キロメートルほどになっております。

なぜなら、現在に至るまでに気の遠くなるような年月が経っているため、風化に加えて人の手により破損された箇所や取り除かれた箇所があるためです。侵食も含め歯止めがかからない状態が続いているのが残念です。

ところがその一方で、今なお万里の長城の一部や痕跡が発見されるのも事実です。今現在に至っても一部がまだ地中に埋まったままで、私たちは万里の長城の全体像をまだ目にしていない可能性がまだまだあるということです。

東西に延びる一本の長城だけではなく、複数の長城の総合計での数値ですが、どちらにしても想像を超える長大な建造物であることは間違いありません。

以前は宇宙から肉眼で視認することのできる地球上唯一の建造物、と言われていましたが、これは事実と異なっていることが判明しています。
宇宙から肉眼で視認するには城壁の幅が足りないのだそうです。

建造期間としては、諸説ありますが紀元前7世紀の春秋時代から17世紀の明代という約2000年以上にわたる建造を重ねました。

建設に動員された人は、当初は謀反人や犯罪者、そして奴隷などが建造にあたり、彼らは過酷な労働を強いられていましたが、やはり費やしたその年月を考えると膨大な労働量であったことは想像に難くなく、軍隊から軍人が、また最終的には農民まで駆り出されることになり、まさに国全体を挙げた壮大な国家プロジェクトとなりました。

犯罪者や奴隷だけでなく農民も含め、労働者は立場の弱い者たちばかりだったので、人件費に関してはほぼかからなかったと言われています。最終的に徴収された農民は全体の70%に及び、もちろん本業の農業が疎かになってしまったことが原因で秦国が滅亡したとも言われています。

国を守るために国を滅ぼしてしまった、これは私たちの人生の教訓ともなりそうです。

建設期間の紀元前3世紀から17世紀までに、建設費用は2兆円とも3兆円かかったとも言われています。先述のように人件費に関してはほぼゼロですので、仮に同様の労働量を現代に課したとすると、少なく見積もっては10倍はかかったと言われているので、この万里の長城が気の遠くなるような規模の国家プロジェクトであったことが分かります。

国を守ることはもちろん賞賛されるべきでとても重要なことですが、費用対効果、効率性を考えた時に、果たしてその他の方法はなかったのかと考えてみるのも、歴史を学ぶ上でまた歴史を振り返る上で新たな楽しみとなるかもしれません。

主にレンガや石で建造されていますが、これも建造からだいぶ経った後半のことです。始めは土を塗り固めて作った土塁であったことが資料からも分かっています。

また、レンガに関してもやはりこのとてつもない距離をレンガをそのままの状態で運んだと考えるのは無理があるので、材料をカートに乗せたりすることで運び、その場でレンガなどを作ったというのは定説です。

歴史的背景

万里の長城は秦の始皇帝が建設したと言われていましたが、実際には始皇帝以前から各国によって長城が築かれていました。
春秋戦国時代には既に北方の騎馬民族の侵入を防ぐ為に、各地に長城が築かれていたのです。
始皇帝は、各国が築いた長城を繋ぎ合わせ、長大な一つの城壁としたのです。

その意味では万里の長城は始皇帝が建設したと言えるのかもしれません。
長城は時代の政策によって、時に増築され、時には放棄されつつも明代まで防衛線として機能していました。
時代を追って、長城の建設、その存在意義などをご説明して行きます。

春秋戦国時代

この時代には、北方だけではなく他国との国境には長城が築かれていたそうです。
始皇帝の秦以外にもこの時代には燕と趙があります。

秦の長城は、他の2国の長城と比べると、かなり南の方に建設されました。
趙の長城は,趙の勢力圏よりも遙かに北方に建設されました。

しかし、燕の長城との位置関係ではほぼ一直線となっている為、北方民族に対する防衛戦としての意味合いが強く感じ取られます。
燕の長城は、他の2国の長城と比べると長大で東端は朝鮮半島にまで届いています。

この時代の長城は、北方の騎馬民族の侵入を防ぐ為の意味合いが強くなっています。

秦代

中華を統一した秦の始皇帝は、秦、趙、燕の長城を繋げ北方からの侵入口を無くしました。
匈奴に代表される北方の騎馬民族は大秦帝国にとっても驚異だったからです。

しかし始皇帝の死後、秦は急激に勢力を失った為、長城も荒廃して行きました。
一部は放棄され、やがて崩壊して行きました。

漢代

前漢の建国当初は匈奴に対して劣勢であった為、秦代の長城を維持する程度に留まっていましたが、第三代皇帝武帝の時代に匈奴に対して攻勢に出ることに成功し、勢力圏が広がるに従って長城も北方に延伸されました。
また、放棄されていた部分も修復され、その総延長は8000キロメートルに及んだと伝わっています。

この頃の万里の長城は、私達が知る石造りの城壁ではなく土塁を盛り固めたものであったと言われています。
匈奴などの北方騎馬民族と戦う時に、最も恐れたのはその騎馬戦術でした。

逆に言えば、騎馬から下ろしてしまえばその戦力は半減してしまう為、馬が乗り越えられない土塁を築いたという説が濃厚です。
石造りの城壁と比べて、建設期間も短くて済むのですが、風化、浸食しやすいという欠点もあります。
このような理由から、万里の長城は大半が失われてしまったのです。

武帝の北方進出によって長大化した万里の長城ですが、その後漢王朝は勢力を失い、北方防衛を放棄します。
匈奴、烏丸、鮮卑などの北方民族は河北平原に侵入し、長城も多くの部分が失われました。

南北朝時代

北魏王朝時代に長城は再び修復されました。
北魏自体が北方騎馬民族の鮮卑族の王朝なのですが、更に北方に柔然という民族が出現して北魏を脅かしていた為、長城が復活したのです。

その後は突厥という別の騎馬民族が勢力を伸ばした影響で、東西だけでなく南北に走る長城を建設して襲撃に備えました。
また、南北朝を統一した隋の煬帝と文帝も長城を修復、建設しましたが、隋王朝は短命に終わってしまいました。

大運河建設と朝鮮出兵の失敗が、隋が滅んだ理由に挙げられていますが、長城修復、建設もまたその理由の1つなのではないかとも言われています。

明代

最期の長城修復、建設が行われたのは明の時代でした。
第三代永楽帝以降の歴代皇帝はモンゴルやオイラートに対抗する為,長城を修復し、また石造りの城壁化を進めました。

長城を利用した国境防衛を行っていた明ですが、清の太祖ヌルハチによって長城が破られ、明が滅びた後は長城が修復される事はありませんでした。

現代

現代では世界遺産として登録され、多くの観光客が訪れる観光スポットになっています。
中国政府も学術的な観点だけでなく、観光資源という面でも重要な万里の長城の修復、保全の為に莫大な予算を計上しています。

しかし、あまりにも長大な長城の保守、点検を行うことは非常に難しく、風化を待つのみになっている箇所もあります。
また、修復、管理が全く行われていない部分を野長城と呼んでいます。
中国の法令により、野長城への立ち入りは禁止されているのですが、観光客による侵入はなくなりません。

保守、整備されている部分よりも、歴史的建築物の趣があって良いという声もあります。
また、地元民によって建材が持ち去られる事例も数多くあります。

野長城ではないのですが、修復前で立ち入り禁止になっている箇所を20年ほど前に見たことがありますが、崩れかかっていて、長城の下に転落する危険のある危ない様子でした。
逮捕される事態にもなりかねませんので、野長城への立ち入りは絶対にしないで下さい。

お役立ち情報

万里の長城を訪れるのにちょっとした役に立つ情報や豆知識をご紹介します。

主なスポット
入場可能な万里の長城の主なスポットをご紹介します。

老龍頭

河北省の秦皇島市、山海関区にあります。
万里の長城というと山の中のイメージが多いと思いますが、東端は海に面しています。

老龍頭は長城の東端が海に沈む姿が有名で、多くの観光客が訪れています。 また町中には天下第一関と言われた山海関もあり、こちらも非常に有名な観光スポットになっています。

司馬台

北京市密雲県にあります。
「古北水鎮」という古鎮テーマパークとワンセットでのツアーに組み込まれていて、司馬台長城だけを訪れる場合は入場時間に制限があるので、少々行きづらいかもしれません。

ここの長城は険しい場所にあり、修復状況もあまりよくないので女性や子供にはあまりお勧めできません。

金山嶺

河北省承徳市漆平県にあります。
北京からでもかなり遠いです。

現存する万里の長城では最も美しい景色が見られるスポットとして有名です。
北京から河北省行きのバスに乗り、「金山嶺服務区」で下車して下さい。

詳しい行き方は「万里の長城 金山嶺」で検索するとわかります。
八達嶺などに比べると観光客も少なく、雰囲気もよい場所です。

慕田峪

北京市懐柔区にあります。
ここと八達嶺には観光用のロープウェイがありますので、体力に自信が無い方でも気軽に長城からの景色を楽しむ事ができます。

ロープウェイを使わずに歩いても行けますが、結構大変です。
帰りはロープウェイではなくスライダーがおすすめです。

八達嶺

北京市延慶県にあります。
最も古くから公開されていて、いわばデフォルトの万里の長城です。
日本からの観光ツアーで訪れるのはほぼここと考えていいでしょう。

急勾配の男坂と比較的楽な女坂とあります。
やはり女坂の方が観光客が多く、混み合っています。

慕田峪と同じく観光用のロープウェイもありますので、体力に自信の無い方は無理をせずロープウェイを使いましょう。
登りのみロープウェイということもできます。

この他にもいくつも入場可能なスポットはありますが、日本ではあまり一般的ではありません。
「万里の長城 入場可能」で検索すると情報を手に入れる事ができます。

いろいろな場所から入場可能な万里の長城ですが、どこでも50人民元ほどの入場料金が必要です。※1人民元=16.8円 2018年3月現在
また、大都市のデパート以外でお土産を買う時は値段交渉をするとほぼ安くなります。

瓶の飲み物は絶対に飲まない方がいいです。
缶やペットボトルよりは安いのですが、お腹を壊す確率も格段に高いです。
最近は以前に比べると大分マシになったとはいえ、わずかな金額の差ですのでペットボトルや缶にしましょう。

最後に

紀元前7世紀から建てたられたものであるにも関わらず、そして誰もが知っている建造物であるにも関わらず、万里の長城が未だ多くの謎に包まれていることが分かりましたね。

だからこそ歴史はおもしろい、だからこそ世界遺産は人々を魅了してやまないともいえます。まさに山あり谷あり、さらに海と砂漠まであるのが万里の長城なのです。

皆さんもぜひ万里の長城を実際に訪れて、自分の目で見て肌で感じながら、歴史の重さとともに万里の長城そのものとの会話を楽しんでみてください。きっと何か教えてくれるかもしれません。