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中国の世界遺産!北京と瀋陽の明・清朝の皇宮群の魅力とは?

今回ご紹介するのは世界遺産、中国の「北京と瀋陽の明・清朝の皇宮群」です。

皆さんは北京と瀋陽の明・清朝の皇宮群についてご存じでしょうか。

「群」という言葉からは大量の宮殿を想像してしまいがちですが、北京と瀋陽の明・清朝の皇宮群は中国の首都北京にある「故宮博物院」と後金の皇帝ヌルハチとホンタイジの時代に皇帝の居城だった「瀋陽故宮」の事です。

紫禁城と呼ばれていた故宮博物院は史上最大の宮殿としても有名で、その巨大な規模は大清帝国の広大な版図を彷彿とさせます。

そんな中国の世界遺産、北京と瀋陽の明・清朝の皇宮群の魅力について、歴史を踏まえながらご紹介していきたいと思います。

明・清朝の歴史

明王朝、清王朝はともに中国の王朝の名前で、歴史的にはかなり新しい部類に入ります。

清王朝は中国最後の王朝で、その1つ前の王朝が明です。

明王朝は西暦1368年に、朱元璋がモンゴル人の王朝である元朝を北に退けて建国されました。

中国史上、江南を根拠地として興った王朝が中華を統一したのは明王朝が唯一の例となります。

太祖洪武帝となった朱元璋は、中華統一後は外征を控え、国内の情勢安定に心血を注ぎました。

当初は南京に政治の中心があった明王朝でしたが、第三代永楽帝の本拠地が北京であったことから、永楽帝以降は北京に国家の中枢が移されます。

もともとモンゴル人の元朝が北京に構えていた宮城を永楽帝が増改築し、その後は明王朝の滅亡まで宮城として使用されていました。

永楽帝は積極的に外征を行い、明王朝の領土を広げ、諸国にその名声を轟かせました。

そのため、日本でも第三代永楽帝の時代に明王朝が絶頂期を迎えたと思っている方が多いのですが、明王朝の絶頂期は永楽帝の時代ではなく、永楽帝の子の第四代洪熙帝、永楽帝の孫の第五代宣徳帝の時代が明王朝の絶頂期です。

その後は北のモンゴルと南の倭寇に苦しめられ(北虜南倭)、その皇帝専制主義の性質から宦官や役人の間でも汚職が蔓延したことから急速に国力を失っていき、西暦1644年、李自成によって北京が陥落し、明王朝は滅びました。

この時に李自成の軍によって紫禁城は壊滅的な被害を被りましたが、後に中国最後の王朝となる清が北京に入城するとこれを再建し、清朝の滅亡まで皇帝の居城となり、数々の歴史的な事件や重要な政策の決定がここで行われました。

清王朝は西暦1636年に国号を清とするまでは、後金国という国号を奉じていました。

後金国は西暦1616年に女真族のヌルハチがバラバラだった女真族の部族を統一して建国した国です。

西暦1644年に北京に遷都するまでの間は瀋陽に宮城が置かれており、これは瀋陽故宮と呼ばれ、世界遺産のもう一方の構成資産となっています。

瀋陽故宮は太祖ヌルハチと太宗ホンタイジの二人の皇帝が居城としていました。

清王朝の第二代皇帝ホンタイジは西暦1643年に崩御しています。

北京に入城し、中華を再び統一した清王朝の版図は歴代中国王朝で最も広いものでした。

これには実はからくりがあって、清は一つの国家ではなく、ポーランド=リトアニア連合王国やオーストリア=ハンガリー二重帝国のような巨大な同君連合国家だったのです。

新王朝の皇帝が称した称号は非常に多く、煩雑なため教科書等ではあえて省略されていますが、満州族に対しては部族長会議の議長、漢民族に対しては明朝を受け継いだ天子皇帝、モンゴル族に対しては大ハーン、チベット族に対してはダライ=ラマの保護者であり俗界の最高施主、シルクロードにおいてはイスラムの守護者など、様々な称号によって各地を統治していました。

北方の騎馬民族というと、力技で版図を広げるイメージがありますが清王朝のやり方はどちらかと言えばソフトランディングで、もともとあった権威を利用する方が多かったのです。

中国統一にしても北方から侵入した異民族の立場ではなく、明王朝に謀反を起こした李自成を討伐して中原に安寧を回復する立場として統治を進めました。

また、清王朝の制度下では、満州族と漢民族は必ず同数の官職となるようにされていたため、漢民族から不満が出にくかったとも言われています。

また、清王朝の皇帝は歴代の中国王朝と比較して優秀な皇帝が多く、即位に際して跡目争いのような事が少なかった事も清王朝が巨大な領域を統治できた理由の一つと言えるでしょう。

しかしそんな清王朝も列強諸国によって利権の草刈り場とされ、国内各地で反乱や独立運動が乱発し、西暦1912年に辛亥革命によって滅亡しました。

故宮博物院(紫禁城)

紫禁城は元朝の時代に造られた建物を、明王朝の第三代皇帝永楽帝が増改築しその後滅亡まで使用された宮城です。

明王朝の滅亡時には李自成によって破壊されましたが、その後北京に入城した清王朝によって修復され、皇帝の居城とされました。

紫禁城は南北961メートル、東西753メートル、総面積725,000平方メートルの敷地を、高さ12メートル、厚さ10メートルの城壁が囲み、その外側には幅52メートルの堀で覆われています。

紫禁城は中国の伝統的な考えによる世界の中心を再現した建物で、北極星を皇帝に見立てているため、宮城は北側に置かれ南側が正面になっています。

北極星の回りの宇宙を「紫微垣」と、皇帝の居城を表す「禁城」を合わせ、紫禁城と名付けられたと言われています。

西暦1925年からは博物館として一般公開されていて、展示物も非常に価値のあるものが多いのですが、この博物館の場合には建物自体の歴史的価値も高くなっています。

有名な天安門広場は紫禁城の前にあり、この門をくぐるところから紫禁城観光が始まります。

天安門をくぐると、午門という南正面の門があります。

この午門からは故宮博物院となりますので、チケットを持っていないと入れません。

午門をくぐると外朝と呼ばれる、公的機関が置かれていた領域に出ます。

この外朝は国家の公的機関が置かれていた部分で、中欧政庁としての前三殿が置かれていました。

前三殿とは太和殿、中和殿、保和殿の三つの建物を指しています。

前三殿よりも奥に進むとそこからは内廷です。

内廷は皇帝の私的な空間で、普段はこちらで過ごしていました。

最初に見えてくるのは後三宮です。

ここは私生活の中心的な場所で現代の家庭で言えばリビングのような空間です。

後三宮とは乾清宮、交泰殿、坤寧宮の三つの建物を指しています。

内廷を更に奥へと進むと、紫禁城の花園である御花園にたどり着きます。

ここには楼閣があり、歴代の皇帝がここで寵姫達と花見を楽しんだと伝わっています。

瀋陽故宮

当時は盛京皇宮と呼ばれていたこの宮殿は、都が北京に移された影響もあり非常に保存状態が良くなっています。

北京の紫禁城と比べると12分の1の大きさの7,000平方メートルですが、それでも十分な広さがあり、中国文化、女真文化、モンゴル文化から建築様式を採り入れた宮殿は他に類を見ない特徴的な建造物となっています。

東院、中院、西院の三層に別れた敷地の内、東院は最も古く、太祖ヌルハチの時代に宮殿として使用されていた部分です。

第二代皇帝ホンタイジの時代には中院が建設され、東院は公式行事の時などに使われるようになりました。

西院は最も新しく、北京遷都後の離宮として使用されました。

瀋陽故宮も北京の故宮と同様に現在では博物館として利用されており、清王朝前期の文物を中心に2,000点以上の品が展示されています。

役立つ情報&豆知識

こちらでは北京、瀋陽の観光に役立つ情報や豆知識をお伝えします。

アクセス

中華人民共和国の首都である北京はもちろんですが、瀋陽へも日本から直通便が運行しています。

北京、瀋陽間は飛行機または鉄道で直通便が運行しています。

鉄道は約7時間、飛行機は1時間半程度の所要時間です。

故宮博物院公式サイト

こちらは故宮博物院の公式サイトです。

残念ながら日本語は非対応で、英語または中国語となっています。

オンライン上でチケットの予約も出来ますが、やはり日本語は非対応です。

チケットについては現地でも購入できます。

パスポートが必要ですので、忘れないようにして下さい。

最後に

いかがでしたか。

これをきっかけに北京と瀋陽の明・清朝の皇宮群に興味を持って頂けたなら幸いです。

明王朝、清王朝は時代が新しいこともあって保存状態も非常に良くなっています。

中国文化や中国の歴史については距離的に近い事もあって、日本でも多くの方がよく知っていることと思います。

「ラストエンペラー」などの映画作品も多く、あまり中国には詳しくないという方でも、実際に話してみると意外に多くの事を知っている事もあります。

紫禁城は東京ドーム50個分の広さがあり、全てを見て回るのは1日がかりとなりますがこれほどまでのスケールの宮殿を目の当たりにする機会は他ではありません。

次回のご旅行先がお決まりで無いようでしたら、是非北京と瀋陽の宮殿巡りもご検討下さい!