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中国の世界遺産、秦の始皇帝陵にズームイン!雄大な歴史の流れと巨大な始皇帝の権力に迫る!

今回ご紹介するのは世界遺産、中国の「秦の始皇帝陵」です。

皆さんは秦の始皇帝陵についてご存じでしょうか。

秦の始皇帝陵は、中国史上初めて中国を統一した大秦帝国の最初の皇帝、始皇帝が葬られた古墳です。

始皇帝は中国で初めて「皇帝」という位を名乗り、中国を統一した他、戦国時代の各国が建設した長城を繋ぎ、万里の長城を創出した人物でもあります。

その始皇帝のお墓が秦の始皇帝陵なのです。

そんな中国の世界遺産、秦の始皇帝陵の魅力について、歴史を踏まえながらご紹介していきたいと思います。

秦の歴史

秦の歴史は紀元前770年に始まります。

北方の異民族、犬戎によって周王朝が都を追われ東に遷都した際に、周の平王の護衛をした功績によって、周西方の領土に封じられ諸侯に加わりました。

紀元前659年に秦伯の位についた穆公は能力主義を採り、他国出身者であっても積極的に登用した為、秦の国力は増大し、周辺の小国を次々に服属させました。

春秋五覇にも数えられる秦の穆公は、周辺の小国だけではなく東の大国晋との戦にも勝利し領土を広げました。

しかし、この時代には主君が死ぬときには家臣が殉死する風習が残っていましたので、穆公が崩御すると177名の優秀な家臣が殉死し、ベテラン官僚を失った秦は弱体化してしまい、その支配領土も縮小しました。

このように勢力を伸ばしていった秦は、戦国時代が始まる頃には戦国七雄に数えられるほどの大国となっていました。

紀元前324年に秦の恵文王が王を名乗ると、どんどんと力を付けていく秦を恐れた楚以外の5カ国による連合軍が秦を攻撃しました。

諸国の連合軍は函谷関に迫りましたが、難攻不落の関所を突破することができずに撤退しました。

紀元前298年には参加国は一部異なるものの、再び5カ国連合によって攻撃されます。

この時も函谷関にまで敵軍が迫り、関所が突破されてもおかしくない状況になりましたが、

この時は外交交渉によって連合軍を退けます。

その後一時期は東方で斉が勢力を伸ばし、宋を吸収します。

宋を吸収した斉は秦と肩を並べる大国となり、東西2強体制がしばらく続きます。

しかし、燕の名称楽毅が斉に攻め込むと連戦連勝を重ね続け、斉を滅亡寸前まで追い詰めました。

漁夫の利ではありましたが、この事件によって中国は秦の1強時代に突入します。

1強時代に突入すると、それまでの外交政策を改め遠交近攻政策を採用し、近隣諸国に侵攻しました。

趙を侵攻した時には、40万人もの兵士を生きたまま埋めて殺す「坑」を行い、後に禍根を残しました。

この頃、後の秦の始皇帝となる政の父、子楚は趙で人質生活を送っており、この子楚を見いだしたのが、後に秦の相国となる豪商呂不韋でした。

呂不韋は子楚に自分の愛妾をあてがい、二人の間に生まれたのが政でした。

真偽は不明ですが、政の実父は呂不韋なのではないかという噂も当時からあったようです。

紀元前247年に秦王政が即位すると、再び5カ国連合軍が秦に迫ります。

野戦で敗北した秦軍は函谷関まで下がり、連合軍を迎撃しました。

堅牢な函谷関を突破することはできず、連合軍は再び退きました。

紀元前238年に相国呂不韋を失脚させ、国政の実権を完全に掌握した政は法家の李斯を丞相に任じ、国力の底上げに成功すると中国統一に乗り出しました。

紀元前221年までに全ての勢力を降伏、服属させ、中国を統一すると秦王を改め、皇帝と名乗りました。

史上初の皇帝なので、始皇帝と呼ばれています。

始皇帝は秤の単位を統一し、文字を統一し、既存の長城を繋げる形で万里の長城を建設するなど、大事業を次々と行いました。

また首都咸陽では阿房宮という巨大な宮殿の建設も同時に行われ、農民達には大いに負担となったと伝わっています。

また、焚書坑儒と言われる思想弾圧も行い、これが後の大規模な反乱の大きな要因の一つとなっています。

中国を統一した後の秦は、長城を越えて北方の匈奴を撃退し、南方はベトナムにまで達する大帝国を築き上げました。

しかし度重なる外征と重労働を課された民の心は秦から次第に離れていき、紀元前210年に始皇帝が崩御すると全土に反乱が広がります。

「王侯将相いずくんぞ種あらんや」と言う有名な言葉があります。

これは、王でも貴族でも将軍でも政治家でも、生まれで決まるわけでは無く、誰でもなることができるという主張です。

陳勝・呉広の乱の時には居並ぶ農民に向かい、この言葉を投げかけて士気を上げたと言われています。

陳勝・呉広の乱は内部崩壊して自然消滅してしまいましたが、秦への反乱自体は全土に広がっていき、やがて項羽と劉邦という2大勢力が台頭していきました。

始皇帝の死からわずか4年後の紀元前206年、この反乱軍によって秦は滅ぼされました。

秦の始皇帝陵について

中華人民共和国の西安市郊外にある秦の始皇帝の墳墓が始皇帝陵です。

始皇帝陵というよりは付属する兵馬俑坑の方が有名かもしれません。

西暦1974年に地元の男性が井戸の掘削を行った際に偶然発見されたこの兵馬俑坑は、始皇帝陵を囲むように配置されています。

中には等身大の陶器製の兵士、戦車、馬が配置されていて、8000人の軍団は全て東を向いています。

兵馬俑坑の兵士は1体1体全てが微妙に異なる姿、表情となっており、当時の軍装品も完璧に再現されていた為、歴史学上の大発見となりました。

兵馬俑坑を通して当時の兵士の軍装や編成、陣配置など様々な事を知ることが出来ます。

また、大きさも等身大であることから、当時の人々の一般的な体格なども推測することができます。

これは余談なのですが、以前にこの発見者の男性と少しお話をする機会があり、当時はそんなものが埋まっているとは思っていなかったから非常に驚いいたし、始皇帝の怨念に呪われるかと思ったと言っていました。

今でこそ正体がわかっているので何とも思いませんが、地下から得体の知れない大量の等身大兵士の陶器が出てきた時はさぞ不気味だっただろうなと思います。

司馬遷の史記には、始皇帝陵の中の棺に近い場所に水銀を使った海や川が作られたという記載があります。

西暦1980年代に始皇帝陵を調査したところ、実際に水銀が蒸発した形跡が見つかったそうです。

始皇帝は水銀の飲み過ぎで命を落としたと言われています。

不老不死の薬と信じていたという事ですから、水銀の力によって死後、復活できると考えていたのかもしれませんね。

役立つ情報&豆知識

こちらでは秦の始皇帝陵観光に役立つ情報や豆知識をお伝えします。

始皇帝陵へのアクセス

北京からのバスツアーまたは西安駅からのバスでアクセスが可能です。

西安駅東からのバスは「遊」と書いてあるバスを利用して下さい。

ただ、始皇帝陵は中国でも非常に人気のある観光スポットですので、バスに長蛇の列が出来ていることも多く、30分~1時間程度の待ち時間を覚悟して行った方がいいです。

肉夹馍(ロオジャーモー)

肉夹馍(ロオジャーモー)はパンで細切れ肉を挟んだ食べ物です。

西安の人気料理で、紀元前には既に食べられていたそうです。

中華風ハンバーガー、世界最古のハンバーガーなどとも言われています。

香辛料をたっぷり使ってトロトロになるまで煮込んだ肉と、少し固いナンのようなパンがよく合っていて非常に美味しいです。

最後に

いかがでしたか。

これをきっかけに秦の始皇帝陵に興味を持って頂けたなら幸いです。

秦の始皇帝は日本でもかなり有名ですし、兵馬俑坑は教科書にも写真入りで掲載されていますので、見たことのある方がほとんどなのではないかと思います。

しかし、写真で見るのと実際に実物を見るのとでは迫力が全然違いますし、写真からはわからないほど兵馬俑坑はスケールが大きい遺跡です。

現在は西安への直通便もありますので、本当に楽に訪れる事ができます。

もし次回のご旅行先がお決まりで無いのでしたら、雄大な歴史の流れと巨大な始皇帝の権力が感じられる世界遺産、秦の始皇帝陵へのご旅行も是非ご検討下さい!