翻訳(Language Change)

ルクセンブルクの世界遺産!古い街並みと要塞群は魅力しかない!

今回ご紹介するのは世界遺産、ルクセンブルクの「その古い街並みと要塞群」です。

皆さんはルクセンブルクの古い街並みと要塞群についてご存じでしょうか。

ルクセンブルクは国、首都ともに同じ名前となっているのですがこの世界遺産は首都であるルクセンブルク市の旧市街を中心とした世界遺産です。

「ベネルクス3国」という名称でひとくくりにされる事も多いルクセンブルクですが、歴史的には非常に強大な力を持っていた事もある国なのです。

そんなルクセンブルクの古い街並みと要塞群の魅力について、歴史を踏まえながらご紹介していきたいと思います。

ルクセンブルクの歴史

ルクセンブルクには旧石器時代から人類が住んでいた事が判明しています。

最初は洞窟や谷などで石器、人骨などが発見されていましたが、より新しいものは平野部から出土していて、徐々森や谷から平野へと生息域が広がって行ったことが分かります。

青銅器時代、鉄器時代にはケルト人とゲルマン人が混ざり合い、紀元前3世紀頃にはトレヴィール人と呼ばれる民族が形成されました。

紀元前1世紀にはガリア戦争によって古代ローマに征服されます。

西ローマ帝国滅亡まで、約400年に渡る古代ローマの統治下では、特に大きな事件も無く、交易の為の街道や宿泊施設なども整備され、ルクセンブルク一帯は順調に発展しました。

しかし、5世紀初頭のゲルマン民族の侵入では広範囲で略奪が発生し、ルクセンブルクも大きな被害を被ります。

西暦450年に西ローマ帝国軍がガリアから撤退した為、ルクセンブルクはゲルマン人の支配下に入りました。

カロリング朝フランク王国が成立すると、ルクセンブルク周辺は政治の中心的地域として栄えました。

しかし、フランク族には分割相続の習慣があったため、ルクセンブルクの帰属も幾度となく変更され、最終的には東フランク王国に組み込まれました。

現在のルクセンブルク大公国が成立したのは西暦963年と言われています。

アルデンヌ伯爵ジークフロイトがトリーア司教の間で土地の交換を行った契約書がその根拠となっています。

ジークフロイト自身はルクセンブルク伯爵を名乗りませんでしたが、彼の子孫がルクセンブルク伯爵を名乗り、現在のルクセンブルク大公国の基礎が形作られました。

ルクセンブルク伯爵家は政略結婚によってバイエルン公爵領を手に入れ、それを元にさらなる勢力拡大を狙いましたが、周辺にはトリーアの司教領が広がっていたためこの時の目論見は失敗しました。

その後西暦1307年にはルクセンブルク家のバルドゥインがトリーア司教に選出され、翌西暦1308年にはルクセンブルク伯爵ハインリヒ7世が神聖ローマ帝国皇帝となり、続く西暦1309年にはハインリヒ7世の息子ヨハンが婚姻によってボヘミア王位を手にするなど、大きく国力を伸ばしました。

西暦1354年には伯爵から公爵へと爵位の格上げが行われます。

最盛期にはルクセンブルク公爵位の他、神聖ローマ皇帝位、ボヘミア王位、ブランデンブルク選帝侯位を兼ねたルクセンブルク家でしたが、後継者が途絶えてしまった事によりその所領は他家に併合されます。

西暦1461年にブルゴーニュ公国に併合されたルクセンブルクでしたが、ヴァロワ=ブルゴーニュ家の後継が途絶えたことによって今度はハプスブルク家の手に渡りました。

フランス革命後は一時期フランスの統治下に入りましたが、ナポレオン戦争の戦後処理を行った西暦1815年のウィーン会議でオランダ国王を大公とするルクセンブルク大公国が成立しました。

この時のルクセンブルク大公国は、オランダとの同君連合でありながらドイツ連邦に加盟するなど、微妙な立場に置かれていました。

西暦1830年のベルギー独立戦争ではベルギー側に立ち、首都ルクセンブルク以外の地域はベルギー領となりました。

翌西暦1831年のロンドン会議によって、国土の西半分をベルギー領、残りをオランダ領とすることが決まります。

西暦1867年のロンドン条約によってプロイセン王国とフランス共和国の緩衝地帯とするために、永世中立国となり、西暦1890年にはオランダとの同君連合が解消されました。

代表的建造物

アルム広場

アルム広場はルクセンブルク市旧市街の中心部にある広場です。

この広場の名前は、英語風に言えばアーミー広場となり、意味もそのままの軍隊の広場です。

この名前はもともとこの場所に兵隊の駐屯地が置かれていた事に由来しています。

現在は「街のサロン」とも呼ばれており、広場の中には周辺のカフェやレストランのテラス席が設けられています。

マクドナルドもありますので、お手軽な値段で世界遺産の広場で一息つくことができますよ。

ルクセンブルクのノートルダム大聖堂

ルクセンブルクのノートルダム大聖堂は西暦1613年から西暦1621年頃にかけて建設された大聖堂です。

この大聖堂はゴシック式やロマネスク式などさまざまな建築様式が採り入れられている点が特徴となっています。

外観は遠くからでも見える2本の尖塔と、主聖堂の緑色のとんがり屋根が印象的です。

大聖堂内部は四方を美しいステンドグラスで飾られながらも過度な装飾が施されることのない、落ち着いた空間となっています。

大公宮殿

大公宮殿はアルム広場から見て東にあります。

西暦1481年に建設されたこの宮殿は、一時期は市庁舎としても使用されていましたが、その後火災によって焼け落ち、西暦1573年に再建されました。

ルクセンブルク大公宮殿となったのは西暦1891年からで、すぐ隣の建物はルクセンブルクの国会議事堂となっています。

毎日朝10時から夕方18時まで2時間おきに衛兵の交代式が行われているこの宮殿は大公の執務室と迎賓館として利用されており、見学ツアーに参加すれば内部を見学することも可能です。

ルクセンブルクの大公は儀礼的な存在ではなく、行政権をもった国家元首で、大公宮殿の正面にルクセンブルク国旗が掲揚されている時は、大公宮殿の中で大公が政務中であることを示しています。

憲法広場

憲法広場はルクセンブルク旧市街の入り口にある広場で、広場中央には第一次世界大戦の戦没者慰霊碑が立っています。

この広場はペトリュス渓谷と渓谷にかかるアドルフ橋、対岸の新市街、ノートルダム大聖堂を一望できる場所で、ルクセンブルク市を訪れる観光客の多くが足を運ぶ場所でもあります。

役立つ情報&豆知識

こちらではルクセンブルク観光に役立つ情報や豆知識をお伝えします。

ルクセンブルクの食事

ルクセンブルクの伝統料理は、ドイツとフランスの影響を大きく受けた為にバラエティに富んでいながら、宮廷料理ではなく庶民の料理として発展したため、素朴で日本人の舌にも合う品が多いです。

ジュッド・マット・ガーデボウネンはそんなルクセンブルクでも最もポピュラーな料理で、豚の肩ロース肉の燻製と、ニンジン、ジャガイモなどの野菜、そしてそら豆を一緒に煮込んだポトフのような料理です。

非常にシンプルですが味はルクセンブルクの人々のお墨付きです。

また、ルクセンブルクはドイツ文化とフランス文化双方を採り入れている為、ワインもビールも日常的によく飲まれています。

こちらも合わせて是非お試し下さい。

ルクセンブルクの言語

既にお伝えしたように、ルクセンブルクはフランスとドイツの双方から強い影響を受けてきた経緯がある為、フランス語、ドイツ語のどちらも通じます。

残念ながら日本語を話すルクセンブルク人には会えませんでしたが、一般的な市民はほとんどの方が英語も話せますので、意思の疎通に不自由することはないと思います。

最後に

いかがでしたか。

これをきっかけにルクセンブルクの、その古い街並みと要塞群に興味を持って頂けたなら幸いです。

ルクセンブルクはヨーロッパの国としては日本ではあまり知名度が高い国とは言えず、多くの方は名前を知っている程度の事が多いと思います。

また、多少知識のある方でも地理的な位置や、1人辺りのGDPが世界一であることなどの情報に留まり、歴史的な経緯や文化についてはあまり知られていないのが現状です。

しかし実際にルクセンブルクを訪れるとその豊かな食文化や、歴史的な建造物、優雅な町並みに魅せられてしまう方も多くいらっしゃいます。

日本からの直通便はありませんので、パリかフランクフルトを経由して訪れるのが一般的です。

旅行会社のツアーパックでは「ベネルクス3国を巡る旅」などという名前で、ベルギー、オランダとセットでのパックも用意されており、最近は日本からの観光客も増えているそうです。

もし、訪れた事が無いようでしたらぜひ次回の旅行先にルクセンブルクもご検討下さい!