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ラトビアの世界遺産!バルト三国最大の都市リガ歴史地区とは?

今回ご紹介するのは世界遺産、ラトビアの「リガ歴史地区」です。

皆さんはリガ歴史地区についてご存じでしょうか。

リガはラトビア共和国の首都でもあり、バルト三国の中での最大都市でもあります。

ハンザ同盟都市でもあり、その経済的重要性からリヴォニア帯剣騎士団、ポーランド=リトアニア連合王国、スウェーデン王国、ロシア帝国と、次々と侵略、占領されることになりました。

そんなラトビアの世界遺産、リガ歴史地区の魅力について、歴史を踏まえながらご紹介していきたいと思います。

リガの歴史

リガの歴史は古く、2世紀には既にヴァイキングがこの地に集落を作っていたことが分かっています。

バルト海に注ぐダウガヴァ川を利用した水運交易の要衝として栄えました。

リガという名前はリヴォニア語の「円」という言葉に由来しており、その名の通り、リガの港は円形状の港でした。

リガはその恵まれた地理的条件から、12世紀頃までにリヴォニアでももっとも栄えた町となり、ドイツ系住民の入植も盛んに行われました。

この頃のリヴォニアはキリスト教が浸透していない、異教の地であった為、当時のローマ教皇イノケンティウシ3世の命によって、北方十字軍が派遣されます。

1500人の騎士を率いてリヴォニアに侵入したシトー会のアルベルトはリガを占領して、キリスト教への改宗を求めました。

西暦1202年にはリヴォニア帯剣騎士団(後のドイツ騎士団)が設立され、リガのドイツ化が進みます。

西暦1282年にはドイツ人の遍歴商人の組織であるハンザ同盟に加盟し、ロシア方面からの交易品のバルト海への中継地点として繁栄しました。

西暦1561年に力を失ったドイツ騎士団が解散した後は神聖ローマ帝国の帝国自由都市となりましたが、西暦1581年にポーランド・=リトアニア連合王国によって占領されました。

西暦1621年にはスウェーデンの絶頂期を築いた国王、グスタフ2世アドルフ(グスタフ=アドルフともいいます)とポーランド=リトアニア連合王国のジグムント3世ヴァーサとの間で8年に及ぶポーランド・スウェーデン戦争が勃発し、リガはスウェーデン王国の支配下に入ります。

この後、17世紀初頭の大北方戦争まではスウェーデン王国領で、その間リガはスウェーデン最大の町でしたが、大北方戦争中にロシア帝国のピョートル1世によって攻略され、西暦1721年のニスタット条約によってスウェーデン王国からロシア帝国に割譲されました。

西暦1918年にブレスト=リトフスク条約によってロシア帝国からドイツ帝国に割譲されたリガでしたが、第一次世界大戦でドイツが敗北するとラトビアは独立し、リガはその首都となります。

しかし第二次世界大戦が始まり、ソヴィエト連邦、ナチスドイツに相次いで占領されてしまいラトビアは滅亡します。

第二次世界大戦中にドイツ系住民の多くがドイツ本国に避難し、大戦後にやってきたソ連はラトビア人を大量にシベリア送りにした上でロシア系住民を集団移住させた為、短い間にリガの最大集団はドイツ系住民、ラトビア系住民、ロシア系住民とめまぐるしく入れ替わりました。

その後、西暦1991年のソヴィエト連邦崩壊後、再び独立したラトビア共和国の首都となり、現在に至ります。

代表的建造物

リガ城

リガ城は西暦1330年にリヴォニア帯剣騎士団の軍事拠点として建設されました。

その後、度重なるラトビア人とドイツ人の争いによって城も荒れ果てていましたが、15世紀後半にドイツ人の勝利が決定的になると、ドイツ騎士団によって西暦1515年に改修、再建されました。

西暦1922年からはラトビア大統領官邸としても使用され、ソ連崩壊後、現在も大統領官邸となっています。

リガ大聖堂

リガ大聖堂は西暦1211年に北方十字軍のアルベルト司教によって建設された大聖堂です。

長年に渡って増改築が繰り返された為、ロマネスク式、バロック式など様々な建築様式が混ざっています。

この大聖堂の名物は西暦1884年に奉納されたパイプオルガンです。

聖ペーテル教会

聖ペーテル教会がいつ建設されたかは定かではありませんが、西暦1209年にリガで発生した火災で被害を免れた事が記録で分かっています。

その後、他の多くの教会建築と同様に幾度となく増改築が繰り返され、ゴシック式からバロック式までの様々な建築様式が混ざり合った建物となりました。

この教会は現在もルーテル派の教会として宗教活動を行っています。

自由の記念碑 

自由の祈念碑は、西暦1918年から西暦1920年までのラトビア独立戦争で戦死した兵士の慰霊碑です。

ラトビアにおける自由と独立のシンボルとなっているこの祈念碑の前では様々な式典が行われています。

西暦1935寝に完成したこの祈念碑の周りの彫刻は全てラトビアの歴史や文化を表しています。

ラトビア民族主義の象徴とも言えるこの祈念碑は、ソヴィエト連邦時代に共産党政権によって何度も解体を検討されましたが、その計画が実行に移されることはありませんでした。

一説によれば、祈念碑事態の芸術性が高かった事から破壊を免れたのだともいいます。

ソヴィエト連邦から独立を回復していない西暦187年に、5,000人を超えるリガ市民が祈念碑に献花し、ソヴィエト体制の犠牲者を悼みました。

3年後にラトビアが再び独立を取り戻すと、晴れて自由の記念碑は独立のシンボルとしてラトビアの人々を統合する象徴となりました。

役立つ情報&豆知識

こちらではリガ観光に役立つ情報や豆知識をお伝えします。

ラトビア名物 ミトン

ラトビアの伝統工芸品として代表的なのはミトンです。

寒い地方だから鍋を使う事が多かったのでしょうか。

様々なデザインがあり、実用性もあるのでお土産にしても喜ばれます。

特に普段料理をすることの多い方にはぴったりの一品です。

ラトビアの食事

ラトビアはその歴史的経緯から様々な食文化が混ざった豊かな食文化を持っています。

食糧自給率も高く、魚介類も豊富に採れるラトビアの料理は伝統的にはドイツの食文化からの影響を大きく受けているため、ジャガイモ、豚肉を使ったソーセージがよく食されています。

また近代ではスラブ圏からの影響も大きく、ロシア風の料理も数多く存在します。

お酒はビールが人気ですが、バルサムという名前のラトビア独特の強いお酒も広く飲まれています。

ちなみにそんなラトビアの家庭での一番人気はロールキャベツだそうです。

最後に

いかがでしたか。

これをきっかけにリガ歴史地区に興味を持って頂けたなら幸いです。

残念ながら日本からラトビアへの直通便はありませんので、フィンランドのヘルシンキを経由してのフライトが一般的です。

まだまだ日本での知名度は低いラトビアですが、「バルト三国巡り」などのツアーパックによって訪れる日本人は年々増えています。

また、世界中で人気になっている日本のアニメ、漫画はラトビアでもやはり人気で、その影響もあってなのか日本語を勉強する方も年々増えているそうです。

ラトビアは旧ソ連の国としては比較的治安が良い方で、日没後に夜景を楽しむ観光客の姿も見られます。

日本と比較すればほとんどの国が危険な国となってしまいますが、どんな国にも危険な場所とそうではない場所があり、ラトビアは危険な場所が少ないと言うことですね。

次回の旅行先がまだお決まりでないようでしたら、是非ラトビアへのご旅行もご検討下さい!