翻訳(Language Change)

ポーランドの世界遺産!マルボルクのドイツ騎士団の城の全貌をまとめてみた!

今回ご紹介するのは世界遺産、ポーランドの「マルボルクのドイツ騎士団の城」です。

皆さんはマルボルクのドイツ騎士団の城についてご存じでしょうか。

マルボルクのドイツ騎士団の城は、かつてこの地を支配していたドイツ騎士団の城で、マルボルク城という名前以外に、マリエンブルク城、マリーエンブルク城と記述されることもあります。

現在はポーランドの領土となっていますが、ドイツ人によって作られたドイツ騎士団が長くここを統治していたため、ドイツ分化の影響を強く受けています。

ヤルタ協定によってポーランドに割譲されるまではドイツ領土でもありました。

そんなマルボルクのドイツ騎士団の城の魅力について、歴史を踏まえながらご紹介していきたいと思います。

ドイツ騎士団の歴史

ドイツ騎士団は西暦1199年にローマ教皇イノケンティウス3世によって騎士修道会に認定されました。

もともとは聖地エルサレムに向かう巡礼者を保護するための目的で作られた騎士団でしたが、やがて他の多くの騎士修道会と同じように軍事的性格が強くなって行きます。

ドイツ騎士団の正式名称はドイツ人の聖母マリア騎士修道会といい、当時はチュートン騎士団という名前で知られていました。

ドイツ騎士団がプロイセン地方に進出するきっかけとなったのは、西暦1226年にポーランド王国のマゾフシェ公コンラート1世が、当時は異教徒であったプルーセン人のキリスト教化が順調にいかないことに業を煮やし、ハンガリーにいたドイツ騎士団を呼び寄せたことにあります。

2年後の西暦1228年には神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世が発したリミニの金印勅書によって、ドイツ騎士団のプロイセン領有が認められました。

更に2年後の西暦1230年にはクルシュヴィッツ条約によってコンラート1世からクルマーラントを割譲され、プロイセンの領有権も認められました。

ポーランド人の中にはこの事件はドイツ騎士団がバルト海沿岸地域の大部分を支配するきっかけを与えたため、後にポーランド国家に最悪の結末をもたらしたと非難する人もいます。

神聖ローマ皇帝とポーランド王の両方から領有権を認められたドイツ騎士団は、プロイセン地方をキリスト教化するための活動を続けました。

ドイツ騎士団領となったプロイセンは、20の教区に分けて統治されていて、騎士団総長の指示に従って各地の修道院長が統治するという中央集権的体制がとられました。

キリスト教化したプルーセン人はやがてドイツ騎士団と同化していきます。

ドイツ本国からは相続する領土を持たない貴族の子弟が続々と騎士団に入会し、また主にフランケン地方からドイツ人の農民が入植してきたため、プロイセンは開発され、ドイツ騎士団も裕福になっていきました。

バルト海沿岸部のリヴォニア帯剣騎士団を併合して東に領土を広げたこともあり、14世紀の最盛期にはヨーロッパ北東の強国として知られるようになりました。

マルボルク城について

マリエンブルクに建設されたマルボルク城(マリエンブルク城)はドイツ騎士団のバルト海沿岸地方進出の橋頭堡として西暦1274年に建設されました。

西暦1308年、ドイツ騎士団がグダニスク(ドイツ語名ダンツィヒ)とポメラニア地方を征服した後、マリエンブルクはドイツ騎士団領プロイセンの中でも重要な地域となりました。

それまでエルブロンクにあった騎士団事務所が移され、ヴェネツィアからやって来た騎士団総長はマルボルク城の増改築に着手しました。

翌西暦1309年にはドイツ騎士団領の国家本部がマルボルク城に移されました。

ドイツ本国から新たな騎士団員が入会して人数が増加するに従って城も増築されていきました。

やがてドイツ騎士団とポーランド=リトアニア連合王国は領土をめぐって争うようになります。

この戦いはポーランド=リトアニア連合王国側が優位に戦いを進め、西暦1343年のカリシュ条約で一部の地域がポーランドに割譲されました。

しかしその後もドイツ騎士団とポーランド=リトアニア連合王国との戦いは続き、ついに西暦1410年にグルンヴァルトの戦いが勃発します。

この戦いは東ヨーロッパ近世の幕開けとも言われている戦いで、宗教勢力であったドイツ騎士団は騎士団総長を初めとする幹部団員の数多くを失いました。

ドイツ騎士団の残存兵力はマルボルク城に立て籠もり、ポーランド=リトアニア連合王国軍は城を包囲します。

しかし堅牢な城に攻めあぐねているところに、当時ドイツ騎士団領だったリヴォニアから援軍が派遣されたため、リトアニア軍は迎撃に向かい、ポーランド軍だけで包囲戦を続けることになります。

ポーランド軍は農民兵が数多く含まれていたため、農繁期を迎えたころに包囲は解かれました。

ポーランド=リトアニア連合王国の傘下に入ったドイツ騎士団領プロイセンでしたが、マルボルク城はドイツ騎士団の城として残りました。

西暦1453年、ドイツ騎士団とポーランド王国は再び戦火を交えました。

4年後の西暦1457年にはマルボルク城も陥落し、西暦1466年までにドイツ騎士団の勢力はポーランドから一層され、第二次トルニ条約によってこの地方はポーランド王国領となりました。

その後西暦1618年からの三十年戦争でポーランドが戦場となり、西暦1626年から西暦1629年までの3年間はスウェーデン帝国によってマルボルク城も占拠されます。

このようにスウェーデンに占拠される時期もありましたが、西暦1772年、第一次ポーランド分割でプロイセン王国領となるまではマルボルク城とその一帯はポーランド王国の領土でした。

マルボルク城はポーランド王の別荘となり、西暦1460年からは国王が巡幸に出る際の滞在先としても利用されました。

お役立ち情報

こちらではマルボルク観光に役立つ情報や豆知識をお伝えします。

世界一の城

実はマルボルク城は世界一の城としても知られています。

何が世界一なのかと言いますと、レンガで建造された建造物として世界で最大規模の建物なのです。

また、マルボルク城は宗教勢力であるドイツ騎士団の本拠地でもあったため、軍事要塞としてだけでなく、修道院でもありました。

またこの城はドイツ騎士団の収入源でもあった琥珀を加工して販売していたことから「琥珀城」と呼ばれることもあったそうです。

最後に

いかがでしたか。

これをきっかけにマルボルクのドイツ騎士団の城に興味を持って頂けたなら幸いです。

マルボルク城は世界の名城25選にも選ばれたことがある有名な城で、くまなく見学しようと思ったら半日以上は見ておいた方がいいかもしれません。

先程少しお話しましたが、ドイツ騎士団の時代からこの地方では琥珀を豊富に産出していて、騎士団の財源にもなっていました。

世界中の琥珀の9割近くがポーランドとリトアニアから産出されているそうです。

マルボルク城内でも数多くの琥珀が展示されていて、そのスケールは訪れる観光客の目を奪います。

ポーランドを訪れる際には是非マルボルクへも足をお運び下さい!