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ポーランドの世界遺産!クラクフ歴史地区の魅力を徹底解説!

今回ご紹介するのは世界遺産、ポーランドの「クラクフ歴史地区」です。

皆さんはクラクフ歴史地区についてご存じでしょうか。

クラクフはポーランド南部にある町の名前で、チェコやスロバキアの国境から近い位置にあります。

人口は約75万人で、ポーランドで3番目に大きい町となっています。

そんなクラクフ歴史地区の魅力について、歴史を踏まえながらご紹介していきたいと思います。

クラクフの歴史

クラクフを含むポーランド地域には、石器時代から人類が定住していた形跡が残されています。

青銅器時代の遺跡や、初期の鉄器時代の遺跡も発見されており、長い間人類が定住していた事が判明しています。

スラブ人、ゲルマン人、ローマ人、トルコ人、スキタイ人などさまざまな民族が移り住み、ポーランドはかなり早い段階から集落が形成されはじめました。

クラクフには西スラブ民族の一派であるヴィシラン族が定住していました。

かれらは強力な王国を建国しなかったため、後にやってくるモラヴィア人には対抗できませんでした。

モラヴィア人はモラヴィア王国を建国し、クラクフも支配下に収めました。

モラヴィア王国は遅くとも西暦829年にはキリスト教を受け入れていたため、クラクフもこの頃キリスト教の町となったと思われます。

その後、モラヴィア王国はハンガリー人の祖先であるマジャール人に倒されました。

歴史書に初めてクラクフの名前が搭乗するのは西暦966年のことです。

この頃イベリア半島はイスラム教勢力によって統治されていて、後ウマイヤ朝のことをアンダルスと呼んでいました。

アンダルスのユダヤ人歴史学者イブラヒム・イブン・ヤクーブが記述した歴史書によれば、クラクフはボヘミア地方の交易都市と記載されています。

西暦1038年にはクラクフはピャスト朝ポーランド王国によって王都とされました。

13世紀にモンゴル軍によるヨーロッパ攻撃が起こった時にはクラクフも破壊されました。

長い年月をかけ、14世紀にはクラクフは再建されます。

再建によって建設ラッシュが発生し、町は好景気に沸きました。

大工や職人などが定住したため、町の人口は増加します。

西暦1364年にはピャスト朝ポーランド国王カイジミェシュ3世(カジミェシュ大王)によってポーランド最古の大学である、クラクフ大学(ヤギェウォ大学)が設立されました。

この大学には天動説で有名なコペルニクスが通っていたことで有名です。

同じころ、商品取引所や聖マリア教会などの大型施設も建設されました。

モンゴル軍の攻撃によって町が破壊されたあと、ピャスト朝ポーランド王国のカジミェシュ大王はユダヤ人を積極的に招致し、ヴィスワ川の中州をユダヤ人自治区としました。

中州は周囲を囲んでいるヴィスワ川を利用した水上交通、水運によって繁栄し、ユダヤ人自治区全体が裕福になっていきました。

また、ユダヤ人を受け入れていた町は少なかったためヨーロッパ全体から多くのユダヤ人が集まり、次第にユダヤ人自治区は中州だけではなく川の対岸にも広がって行きました。

西暦1572年にヤギェウォ朝が断絶した後のポーランドでは、貴族制議会勢力が力を持ったため王権は弱体化していきました。

ピャスト朝、ヤギェウォ朝と長い間ポーランド王国の都であったクラクフも、王権の弱体化とともに衰退を初めます。

16世紀から徐々にポーランド王国の政治的中心地はワルシャワに移っていき、17世紀の初めには正式にクラクフからワルシャワへと王都が移されました。

西暦1618年からの三十年戦争と、西暦1700年からの大北方戦争でポーランドは戦場となったため国土は荒廃し、南部のクラクフにも戦災被害は及びました。

18世紀後半にはオーストリア・ハプスブルク帝国、ロシア帝国、プロイセン王国の3国によって3回に渡ってポーランド分割が行われます。

これによってクラクフはオーストリア・ハプスブルク帝国領ガリツィアとなりました。

3回の列強によるポーランド分割のあと、西暦1815年にはウィーン議定書による事実上4回目のポーランド分割が行われました。

クラクフはオーストリア・ハプスブルク家保護下のクラクフ共和国となりましたが、西暦1846年の2月にクラクフ市民が反ハプスブルクを掲げて放棄します。

この事件をクラクフ放棄と呼びます。

放棄の結果は失敗に終わり、クラクフ共和国はオーストリア軍によって占領され、クラクフ大公国とされました。

第一次世界大戦が終結した西暦1918年にポーランドは再び独立し、クラクフもポーランド共和国に帰属しました。

しかし第二次世界大戦では、東からソ連軍、西からナチスドイツ軍が侵入し、またもや国が消滅してしまいます。

ナチスドイツのポーランド総督はクラクフのヴァヴェル城を本拠地としてポーランドの統治を行いました。

代表的建造物

聖母マリア聖堂

クラクフ中央市場広場に面しているレンガ造りのゴシック式教会が聖母マリア聖堂です。

この教会は西暦1222年に建設されました。

かつてモンゴル軍がクラクフに押し寄せた時、教会の窓からラッパを吹いてモンゴル軍の襲撃を知らせたといいます。

しかしラッパ拭きはラッパを吹き終わる前にモンゴルの射手によって喉を射貫かれてしまいました。

このエピソードにちなみ、聖母マリア教会では毎時ラッパの音が響いています。

織物会館

クラクフ中央市場広場の中心にある建物は織物会館です。

この建物ではかつて織物取引が行われていました。

もともとは14世紀に建てられましたが、19世紀に火災で焼け落ちた後で再建され、アーケードが取り付けられました。

ヴァヴェル城

中世ヨーロッパで最大の王国だったポーランド・リトアニア連合王国の王城がこのヴァヴェル城です。

クラクフ旧市街の南にあるこの城は、レンガ造りの美しい城からは当時のポーランドの隆盛ぶりが伝わってきます。

お役立ち情報

こちらではクラクフ観光に役立つ情報や豆知識をお伝えします。

竜の伝説

昔々、ヴィスワ川に美しい娘をさらって食べる竜が住んでいました。

恐ろしい竜に人々はなす術もなく娘たちを生け贄に捧げていましたが、ある日勇敢な靴職人が竜を騙してタールと硫黄をしみ込ませた羊肉を食べさせます。

タールと硫黄がしみ込んだ羊の肉を食べた竜は喉が渇き、川の水を飲み続けたそうです。

やがて川の水を飲み過ぎた竜は破裂してしまいました。

羊肉を食べさせて竜を退治した靴職人は、その後王の娘と結婚して幸せに暮らした、という伝説です。

ヴァヴェル城からヴィスワ川に抜ける秘密の通路が竜の洞窟と呼ばれていて、洞窟を抜けた先にはこの伝説を元にした竜の像があります。

この竜の像は5~10分に1回程度火を吹く仕掛けになっています。

最後に

いかがでしたか。

これをきっかけにクラクフ歴史地区に興味を持って頂けたなら幸いです。

ポーランドの都というと私達は一般的にワルシャワをイメージしますが、中世ヨーロッパで最大の王国だったころのポーランドの都はここクラクフだったのです。

ポーランドを訪れたことのある方にお話を伺っても、クラクフはポーランドの中で一番綺麗な町だった、という方が多いです。

またクラクフにはあの有名なルネッサンスの天才、レオナルド・ダ・ヴィンチの「白貂を抱く貴婦人」という絵があることでも有名です。

ダ・ヴィンチが書いた女性の絵は4つしか残っていないのですが、そのうちの1つが「白貂を抱く貴婦人」なのです。

他の3点の中には世界一有名な絵画、「モナ・リザ」などがあります。

ポーランドを訪れる際には是非クラクフへも足をお運び下さい!