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ポルトガルの世界遺産!リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔の全貌をまとめてみた!

今回ご紹介するのは世界遺産、「リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔」です。

皆さんはリスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔についてご存じでしょうか。

ジェロニモス修道院はポルトガルの首都リスボンにある壮麗な作りの修道院です。

ベレンの塔はマゼランの世界一周航海を記念して建設された建物で、町を流れるテージョ川を出入りする船を監視する役割を持った塔です。

この二つの建物はポルトガル国内のユネスコ世界遺産としては最も早く認定された建物で、現在では年間70万人を越える観光客が訪れています。

付近にある発見のモニュメントと呼ばれる建造物も有名で、ほとんどの方はこの3つの観光スポットを訪れます。

発見のモニュメントはこの世界遺産の登録構成資産には入っていませんが、3つの建造物は全て大航海時代に海上帝国を築きあげたポルトガルの権勢を示しています。

そんなリスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔の魅力について、歴史を踏まえながらご紹介していきたいと思います。

リスボンの歴史

皆さんはこの世界遺産がある町、リスボンについてどのくらいの事をご存知でしょうか。

ポルトガルの首都であることを知っている方は多いのではないかと思いますが、それ以上のこととなると日本ではあまり知られていないのが現状ですよね。

実はこの町はパリやロンドンはもちろんローマよりも古い町で、フェニキア人がイスパニアにたどり着くよりも前からケルト系のイベリア先住民族の集落が存在していました。

以前はフェニキア人の植民市がもっとも古い遺跡と考えられていましたが、近年ではフェニキア人の遺跡ではなく、イベリア先住民族がフェニキア人との間で交易を行っていた形跡なのではないかと見られています。

いずれにしても紀元前1000年以前もの昔からこの土地に彼らの影響があったことは確実で、リスボンの地名も安全な港というフェニキア語に由来しているという説があります。

ローマとカルタゴが地中海の覇権をかけて争ったポエニ戦争の時代、カルタゴの領土の中でも最も重要な領土だったのがこのイスパニアでした。

カルタゴの名将ハンニバルがイタリアに進軍するのに率いていたのもこのイスパニアの兵隊です。

時代が下ってローマが帝政になってからはリスボンにはローマ、ギリシャだけでなくオリエント地方からやってきた様々な神々の神殿、入浴施設や円形闘技場などが建設されました。

古代ローマ帝国統治時代の後半はガリアやブリタニアなどの他のローマ属州との交易によってイスパニアは属州の中でも最も豊かな土地の1つとなっていました。

この頃、オリシポと呼ばれていたリスボンはイスパニアの中でも早くからキリスト教が伝わり、西暦356年には既に初代の大司教が配置されていました。

4世紀末から5世紀前半にかけて、古代ローマ帝国が崩壊した時にはイスパニアにもゲルマン民族が侵入し、ヴァンダル族、スエヴィ族の支配を経て西ゴート族がイスパニアを支配しました。

この時代には町はウリシュボーナと呼ばれていました。

西暦711年、北アフリカからイベリア半島に侵入したムスリムの手によって町は陥落します。

イスラム教の教えで啓典の民として扱われていたキリスト教徒、ユダヤ教徒はジズヤという名前の人頭税を支払うことでジンマと呼ばれる公的な保護を受けることが可能となり、ジンマを受けている人はジンミーと呼ばれて信仰の自由と民族的慣習の保持が認められました。

もともとはキリスト教徒とユダヤ教徒だけに適用されていたこの制度ですが、イスラム世界の膨張とともにこの考えは緩められ、ゾロアスター教は開祖ゾロシュトラをアブラハムと同一人物であるとすることによって啓典の民の地位を得ます。

また、グノーシス主義の一派であるとされているマンダ教徒はパブテスマのヨハネを教祖とすることで啓典の民の地位を得ました。

このように、旧約聖書の人物をその教えと結びつけることで啓典の民としての地位を得た宗教は少なくありませんでした。

イスラム教以外の異教徒の側でも進んでこれを受け入れた形跡があります。

この当時のイスラム世界は進んだ科学技術や豊かな経済力があったので、その勢力の保護を受け入れることに抵抗の無い人も多かったのです。

8世紀からイスラム教徒の支配下にあったリスボンですが、西暦1108年にノルウェー十字軍によって一時期解放されています。

しかしこの時はわずか3年で再びイスラム教徒に町が奪還されてしまいました。

町がキリスト教徒の手に戻ったのは西暦1147年のことでした。

レコンキスタ(キリスト教徒の国土回復運動)によってキリスト教徒の手に戻ったリスボンには15万人を越える人々が住んでいました。

キリスト教徒は異教徒に寛容ではなかったため、大勢のイスラム教徒は改宗、または追放され町からはイスラム教の面影は消えていきました。

大航海時代の幕開けとともに無数の探検隊、商船、征服軍がリスボンの港から出航していきました。

インド航路を開拓したヴァスコ=ダ=ガマもその中の一人です。

16世紀にはポルトガルの黄金時代が到来し、リスボンはアジアから運ばれる香辛料、砂糖、銀やアフリカからの奴隷、金、宝石、東アジアから運ばれる磁器、漆器などありとあらゆる品が取引される世界最大のマーケットとなっていました。

交易によってもたらされた富によって公共の建造物も数多く作られました。

これらの建物の中に、ジェロニモス修道院とベレンの塔も含まれています。

一大海上帝国を築き上げたポルトガルでしたが、西暦1580年にはスペインとのイベリア連合によってイベリア統一国家となり、独立は失われました。

60年後の西暦1640年に旧勢力の支配階級が反乱を起こし、ハプスブルク家の支配から独立しましたが、これによってスペインとの紛争を抱えることになります。

西暦1668年にリスボン条約が結ばれるまで散発的な戦闘は続きました。

その後は17世紀から18世紀の間に発生した大地震によって市内の建物の大半が崩壊するという壊滅的な被害が発生します。

一連の地震の最も大きいものは西暦1755年の大地震で、この時には東日本大震災のように揺れの破壊力よりもむしろ沿岸部を襲った大津波が深刻な被害をもたらしました。

後年の調査結果では津波の高さは30メートルを超えていた場所もあり、建物の3階部分まで浸水したという記録もあるそうです。

この地震の被害と、フランスのナポレオン1世による攻撃によって古い街並みが破壊されたため、結果として近代的な都市計画を基に町を再建することができました。

現在の街並みはこの時の姿を受け継いでいます。

代表的建造物

ジェロニモス修道院

ポルトガルの歴代国王も葬られている修道院がジェロニモス修道院です。

この修道院はマヌエル式の極致ともいわれており、外観も非常に繊細な装飾が施されていますが、なんといっても一番の見どころは建物内部です。

天上と柱の接合部分はまるで熱帯樹のようになっており、柱自体にも太い樹木を思わせるかのような装飾が施されています。

窓が小さく、薄暗いことがなんとも言えない雰囲気を醸し出しており、見る者を圧倒します。

リスボン観光では外すことのできないスポットの1つです

ベレンの塔

西暦1515年に建設を開始して、5年の歳月をかけて完成したのがこの城塞です。

この頃のポルトガルは世界一裕福な国でもあり、国王の名前にちなんだマヌエル式という美しい建築様式の建物が流行しました。

ベレンの塔にもロープや貝などの航海に関連する装飾が至る所に彫られています。

この塔の地下には潮の満ち引きによって満潮時には海水が流れ込む水牢があり、政治闘争に敗北した多くの有力者がここに収容されました。

ハプスブルク家がポルトガルを支配していた時期には、スペインに反抗的な人物が何人もこの水牢に収容され、命を落としています。

お役立ち情報

こちらではリスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔観光に役立つ情報や豆知識をお伝えします。

共通券

修道院と塔、そして発見のモニュメント、国立考古学博物館の共通入場券の購入がおすすめです。

考古学博物館は特に混雑しているというわけではありませんが、他の3箇所はチケット売り場の列自体が長くなっています。

共通券を購入することでチケット購入待ちを回避できますので、最初に訪れる場所で共通券を購入した方がよいかと思います。

最後に

いかがでしたか。

これをきっかけにリスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔に興味を持って頂けたなら幸いです。

ユーラシア大陸の西の果てであるポルトガルは日本から見ると非常に遠く、なかなか接点もないと思います。

しかし、戦国時代からポルトガル商人や宣教師が日本を訪れていたこともあり、日常的に使う言葉の中にもポルトガル語に由来する外来語が残っていたり、旧植民地であるブラジルには世界最大の日系人コミュニティが存在するなど、ちょっとしたところでの繋がりは数多くあります。

また大航海時代という、世界史の中心で一大帝国を築いたポルトガル黄金期の文化に触れる旅はきっと楽しいとことでしょう。

旅行をきっかけにポルトガル文化を知ることで、日本に溶け込んでいるポルトガルを再発見できるかもしれませんね。

ヨーロッパへのご旅行をお考えでしたら、是非ポルトガルご訪問もご検討下さい!