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ポルトガルの博物館都市!?世界遺産のエヴォラ歴史地区とは?

 

今回ご紹介するのは世界遺産、ポルトガルの「エヴォラ歴史地区」です。
皆さんはエヴォラ歴史地区についてご存じでしょうか。

エヴォラは南ポルトガルの内陸部にある人口60000人程度の町です。
共和制ローマ時代から始まる長い歴史を持つこの町は、いろいろな時代に建てられた建築物が残っている事から、「博物館都市」とも呼ばれています。

共和制ローマ、ローマ帝国から、西ゴート王国、ウマイヤ朝などのムスリムの王国、ブルゴーニュ朝ポルトガル王国、アヴィス朝ポルトガル王国へと統治者を変えながら18世紀まで発展を続けていた町がエヴォラです。

そんなエヴォラ歴史地区の魅力について、歴史を踏まえながらご紹介していきたいと思います。

エヴォラの歴史

エヴォラが歴史に初めて現れるのは、紀元前57年に共和制ローマに征服された時のことです。
これ以前にもイベリア半島の先住民による集落が形成されていたので、実際の起源はもっと古いと言われています。

カエサルはエヴォラを「肥沃なるジュリア」と呼び、称えたそうです。

共和制ローマの高名な学者、大プリニウスも「博物誌」の中で、「エヴォラは周囲を小麦畑で囲まれていて非常に豊かな土地である」と記しています。

エヴォラは地理的にも東西と南北を結ぶ交易路の交差点だったため、共和制ローマの属州として発展を続けました。

4世紀頃にはエヴォラにもキリスト教が伝わり、カトリックの司教座が置かれました。
この頃にも教会などの宗教的建築があったと考えられていますが、残念ながら現存していません。

西ローマ帝国が滅亡した後、イベリア半島に進出してきた西ゴート人の王国に組み込まれます。
この頃になるとキリスト教の聖堂を持つ大きな町に発展していたという記録が残っています。

西暦715年に北アフリカからムーア人がイベリア半島に渡り、エヴォラもその領土に入ります。
ムーア人の統治下でエヴォラはゆっくりと繁栄を取り戻し始め、後には要塞とモスクが建設され、周辺一帯の中心的都市として発展していきました。
ムーア人の統治は西暦1165年までの約450年続き、現在のエヴォラの街並みにもムーア人の影響は色濃く残っています。

カトリック勢力による国土回復運動(レコンキスタ)が起こると、エヴォラはポルトガルの英雄、「怖い物知らずのジェラルド」によって西暦1165に攻略され、翌年にブルゴーニュ朝ポルトガル王国の初代国王アフォンソ1世の領土になりました。

ブルゴーニュ朝、アヴィス朝ポルトガル王国の国王はエヴォラに好んで滞在することも多かったため、王族や近習のための邸宅、宗教的建築物、国家の威厳を表すためのモニュメントなどが建設されました。
時にはエヴォラで国の重要な決定が行われる事もあったそうです。

15世紀後半から16世紀前半にかけて、アヴィス朝のマヌエル1世と続くジョアン3世の時代にポルトガルの国力が最盛期を迎えた事もあり、ポルトガル=ルネッサンス運動の中心地であったエヴォラは大いに栄えました。

西暦1540年には司教座から大司教座に格上げされ、宗教都市としても繁栄しました。

西暦1559年には、当時非常に大きな勢力を持っていたイエズス会によってエヴォラ大学が開設され、その影響下でエヴォラは対抗宗教改革(カトリック改革)の中心地として機能しました。

この時代には中央ヨーロッパではルターやカルヴァンの宗教改革によって、中央ヨーロッパでは新教(プロテスタント)と旧教(カトリック)の激しい争いが繰り広げられていましたが、スペイン、ポルトガルでは新教が広まることも無く、旧教支持国としての立場を一貫していました。

西暦1580年にはスペインによってポルトガルが併合されてしまいますが、スペイン支配下でもエヴォラは変わらず成長を続けました。
その後、西暦1630年にはポルトガルは独立を取り戻します。

国力の増大に伴って、順調に成長を続けていたエヴォラでしたが、17世紀に入るとイングランド、オランダの海洋進出が激しくなり、イベリア半島の国家は海洋権益を失い衰え始めます。

国家の国力が衰退したことにより、エヴォラの成長も鈍化しましたが、決定的な事件は西暦1759年に起こります。
この頃ポルトガル王国で大きな権力を持っていたポンバル侯兼オエイラス伯セバスティアン・デ・カルヴァーリョによって

エヴォラからイエズス会が追放され、大学が閉鎖されてしまったのです。

このことがきっかけで、宗教、学問の中心的都市として発展をしていたエヴォラは大きく衰退していきました。

西暦1986年にエヴォラはその歴史的、文化的価値を認められ、ユネスコの世界遺産に認定されました。

代表的建造物

エヴォラ大聖堂

西暦1280年に着工されたエヴォラ大聖堂は、複数の建築様式を持つ大聖堂として知られています。

主な建築期間は西暦1280年から西暦1340年までの約60年間ですが、その後も度々増改築が行われています。
バロック式の礼拝堂とマヌエル式の礼拝堂を併せ持つ他、ルネッサンス式の部屋も持っており、ファサードの上部には使徒像が置かれています。

また、すぐ近くにはローマ時代の遺跡のローマ神殿もあります。

サン・フランシスコ教会

15世紀後半から16世紀にかけて建設された教会で、やはりゴシック式、マヌエル式、バロック式の混合様式となっています。

この教会には人骨堂という礼拝堂があり、ここの内壁には5000体以上の人骨が埋め込まれています。
埋め込まれていると言っても、内部に埋められているわけではなく、壁を人骨が覆い尽くしているような感じです。

このちょっと不気味な礼拝堂は、イエズス会と同様に大きな勢力を持っていたフランシスコ会の修道士によって作られました。

瞑想を目的とした場所だったそうですが、どのような心境で瞑想していたのでしょう。
堂内は明るく、お墓のような雰囲気ではありませんが、目の前に人骨の壁が広がっているのはやはり少し不気味です。

マヌエル王宮

ポルトガルの最盛期の国王、マヌエル1世によって建てられた宮殿です。
ゴシック式とルネサンス式の複合建築で、ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路の開拓を拝命したのもこの宮殿と言われています。

元々は13世紀に建てられた修道院を大幅に増改築して建設されたそうです。

当時は華麗で壮大な宮殿でしたが、その後長年に渡って破壊、略奪が繰り返された結果、その大部分は消失してしまっています。

エヴォラ大学

エヴォラの歴史の中でもお話しましたが、西暦1559年に創立されたイエズス会の神学校を起源とする大学です。
18世紀には一時期閉鎖されてしまいましたが、20世紀に復活しました。

この大学には16世紀の教会と、17世紀、18世紀に建設された巨大な回廊があることで有名です。
大学の建物はルネッサンス式の優美な建築で、とても大学のようには見えないという方もいらっしゃいます。

ローマ神殿

エヴォラ大聖堂のご紹介でも少し触れましたが、ローマ時代の遺跡です。
この神殿は1世紀に古代ローマ皇帝アウグストゥスを祀るために作られました。

長い年月の間に何のための神殿だったのかがわからなくなり、女神ディアナ(アルテミス)を祀った神殿だという都市伝説が広まって、ディアナ神殿と呼ばれることもあるそうです。

ヴァスコ・ダ・ガマ邸

インド航路開拓が有名なヴァスコ・ダ・ガマはエヴォラに数年間住んでいたことがあり、現在でも当時住んでいた家が残っています。

役立つ情報&豆知識

こちらではエヴォラ歴史地区観光に役立つ情報や豆知識をお伝えします。

エヴォラの水道橋

アグア・デ・プラータというこの水道橋は、北西からエヴォラの町に向かって水を供給している水道橋です。
アグア・デ・プラータは16世紀にジョアン3世の命によって作られました。

この水道橋が他の各地の水道橋と違うところは、エヴォラの町に入った後の水道橋がとてもユニークになっているところです。

幹線道路を横切って、エヴォラの町に入った後は、橋と町が一体化するかのように橋脚の隙間を縫って住宅がひしめいています。
まるで橋が町を貫こうとしているかのようなその姿は見ものです。

カノ通りという、橋添いの通りを進んで行くと、途中からは橋のアーチの下に家があるのか、家の屋根の上に橋が作られたのかよくわからなくなってきます。

エヴォラを訪れるなら外せない観光スポットです。

コルク

エヴォラの名物はなんと言ってもコルクです。

コルクの生産量が多いポルトガルの中でも有名なのがここエヴォラなのです。

コルクのサンダルや鞄、絵ハガキなど、いろいろなコルク製品が売られています。
デザインがユニークな物も多く、値段もお手頃なのでお土産として最適です。

最後に

いかがでしたか。

これをきっかけにポルトガルの世界遺産、エヴォラ歴史地区に興味を持って頂けたなら幸いです。

中世から大航海時代にかけて絶大な国力を持ったポルトガル。
エヴォラはその国力を背景に、宗教、文化、芸術、学問など多くの分野で繁栄した町です。

ポルトガルが衰退した後もその面影は色あせること無く現在に伝わっています。
多くの国王が愛した町、エヴォラ。

首都リスボンからも近く、日帰りで訪れる事も可能です。
ポルトガルにご旅行の際には是非エヴォラにも足をお運び下さい!