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フランスの世界遺産!アルル、ローマ遺跡とロマネスク様式建造物群へ行ってみよう!

 

今回ご紹介するのは世界遺産、フランスの「アルル、ローマ遺跡とロマネスク様式建造物群」です。

皆さんはアルル、ローマ遺跡とロマネスク様式建造物群についてご存じでしょうか。

アルルはフランス南部、地中海に流れ込むローヌ川の河口に近い町の名前です。

この町はカエサルとポンペイウスが戦ったときに、カエサル側についた事でその後優遇され、この地方で重要な都市となりました。

また、登録世界遺産名のロマネスク様式建造物というのは11世紀頃建設されたサン=トロフィーム教会のことです。

そんなアルル、ローマ遺跡とロマネスク様式建造物群の魅力について、歴史を踏まえながらご紹介していきたいと思います。

アルルの歴史

アルルの歴史は古代ローマ時代よりも古く、紀元前6世紀ごろに古代ギリシャ人によって植民市が建設されました。

その後紀元前535年にはガリアに定住していたケルト人によって占領されます。

ケルト人は町の名前をアレラーテに改名しました。

この名前には「池の近く」という意味があります。

当時と現在の姿が全く同じというわけではありませんが、現在でも町の南側にはベール湖やヴァカレ池といった大きな池がいくつも広がっています。

紀元前123年にはイタリア半島からガリアに進出してきた古代共和制ローマの軍団によって町が占領されました。

町から地中海に船でアクセスできるように運河が整備され、ローヌ川を利用した水運によって町は大きくなっていきました。

しかし、アルルの南西には海岸沿いの港町であり、よりローマ本国に近いローマ植民市マッサリア(現在のフランス・マルセイユ)があったため、アルルは常にマッサリアとの競争を強いられていました。

この競争状態を終わらせるきっかけとなったのは、カエサルとポンペイウスの争いでした。

ローマの二大権力者が覇権をかけて争ったこの戦いで、マッサリアはポンペイウス派に立っていたのに対して、アルルはカエサル派に立って援軍を派遣しました。

やがてカエサルがポンペイウスとの争いに勝利すると、マッサリアが持っていた権益を没収し、アルルに与えました。

またアルルは正式に植民市となります。

以前からアルルにはローマの第六軍団司令部が置かれていたため、「第六軍団のためのアルルのユリウス植民市」という名前でローマ市となったのです。

それから400年以上の長きに渡り、古代ローマ帝国皇帝がガリア方面に遠征する際にはアルルに司令部が置かれる事が多くなりアルルは繁栄しました。

西暦300年頃、テトラルキアによって分裂状態にあったローマ帝国を再統一した大帝コンスタンティヌス1世はこの町を好み、ローマ式浴場を建設しました。

この浴場はコンスタンティヌスの公衆浴場と呼ばれ、現在でも大部分が残されています。

西暦395年に古代ローマ帝国が東西に分割されると、西ローマ帝国の最重要植民市としてガリア方面軍の司令部が置かれました。

西暦407年に西ローマ帝国の皇帝を僭称したコンスタンティヌス3世は、アルルを都としていました。

西ローマ帝国の末期、アルルはガリアへのキリスト教布教の中心地となりました。

アルルからは当時の有名な哲学者、神学者が多く輩出され、宗教と学問の町として有名になりました。

西ローマ帝国滅亡後はランゴバルド族やヴァンダル族の統治を経て、西暦855年にはアルル王国が建国されます。

アルル王国はブルグント王国と呼ばれることもあり、この場合にはブルグント族が建国したブルグント王国と区別するために、第二のブルグント王国と呼ばれることもあります。

西暦1006年に、アルル王国のルドルフ3世は、神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ2世との間で、後継者がいない場合には神聖ローマ帝国皇帝がアルル王国を継承するという条約を結びます。

ルドルフ3世は生まれつき体が弱かったため、西暦1032年に後継者がいないまま死去しました。

これによってアルル王国はハインリヒ2世の後を継いでいた神聖ローマ帝国皇帝コンラート2世が相続することになります。

名目上は神聖ローマ帝国領土となったアルル王国でしたが、11世紀から14世紀にかけてその領域は次々と独立、分裂していきました。

西暦1378年には実質的にブルグント(フランス名ブルターニュ)を支配していたフランス王国の王太子に対して神聖ローマ帝国皇帝の代理職として永久にアルル王国を統治する権利を認め、事実上アルル王国は消滅しました。

しかし、この時に神聖ローマ帝国皇帝が認めたのは統治権のみであり、アルル王国の王位を禅譲したわけではないとされていたため、西暦1806年に神聖ローマ帝国が崩壊するまで歴代の神聖ローマ帝国皇帝はアルル王の称号も名乗っていました。

名目上だけの話ではありますが、神聖ローマ帝国はフランスの一部も統治しているという状態だったのです。

神聖ローマ帝国皇帝を選ぶ選帝侯の一人、トリーア大司教もガリア=ブルグント大書記官長という宮中官位を名乗っていました。

近世までアルルはブルターニュの重要な交易都市として一定の地位を保っていましたが、鉄道網が整備されるにつれ水運の相対的重要度が下がり、19世紀以降は徐々に衰退していきました。

代表的建造物

円形闘技場

アルルに残されている古代ローマ時代の遺跡の中では最大級の遺跡です。

1世紀の終わりごろに建設されたこの円形闘技場は、当時は3層構造となっており、2万人以上の観客を収容できたと伝わっています。

現在では最上層が消失し、2層部分が残っています。

古代劇場

こちらも紀元前1世紀ごろに建設された古代ローマ遺跡で、中世には採石場とされ、数多くの石材が持ち去られました。

その後一時期は軍事施設としても利用されていましたが、19世紀に復元されました。

この遺跡からは「アルルのヴィーナス像」が出土したことで有名です。

アルルのヴィーナス像自体はパリのルーヴル美術館で展示されています。

コンスタンティヌスの公衆浴場

トルイユ公衆浴場とも呼ばれるコンスタンティヌスの公衆浴場は、4世紀にコンスタンティヌス1世がアルルに滞在した際に建設されました。

建設当時は宮殿、水温の違う3種類の浴室、運動場、サウナ、プールが併設されていた巨大な浴場施設でしたが、現在残っているのは2種類の浴室とサウナ、プールだけになっています。

ローマの城壁

古代ローマ時代の城壁はアルル市内の2か所に残されています。

もともとアルルはローマ第六軍団の拠点でもあったため、城壁に完全に囲まれた城塞都市だったのですが、古代劇場などの娯楽施設を建設する際には城壁を壊して建材としてしまったため、その後も各時代で建材に利用されどんどん消失していきました。

サン=トロフィーム教会

サン=トロフィーム教会は、11世紀ごろ建設されたロマネスク式の教会です。

この教会は19世紀まではカトリック司教座が置かれていた大聖堂だったのですが、西暦1801年に教区教会に降格しました。

この教会は聖トロフィムスの聖遺物が収められていることでよく知られています。

聖トロフィムスは3世紀ごろのアルル司教です。

お役立ち情報

こちらではアルル観光に役立つ情報や豆知識をお伝えします。

ゴッホ

19世紀を代表するポスト印象派の画家ゴッホが晩年を過ごしたのがここアルルでした。

西暦1888年から西暦1889年にかけてゴッホはアルルに滞在し、この間やはりポスト印象派の画家であるゴーギャンも2か月ほどアルルに滞在しました。

ゴッホの代表作の1つでもあるアルルの女はこの時代に描かれた作品です。

アルル滞在中にはこの他にも多数の作品を描いています。

このころのゴッホは精神を病んでしまっていて、自らの耳を切り落とす事件も起こしています。

ゴッホを心配して訪れたゴーギャンもとの共同生活もこの事件をきっかけに終わってしましました。

最後に

いかがでしたか。

これをきっかけにアルル、ローマ遺跡とロマネスク様式建造物群に興味を持って頂けたなら幸いです。

近隣のマルセイユと比べるとアルルの日本での知名度は低いように感じますが、古代ローマ時代から中世まで一貫してアルルのこの地方での重要度は非常に高く、一時期のアルル王国はブルターニュ地方に加え、スイスや北イタリアの一部までを領有していた時代もありました。

また、アルルはサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路のうち、南フランスを通ってスペインに向かうトゥールーズの道の始点でもあったため、別件の世界遺産、「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」にも登録されています。

鉄道時代の幕開けとともに田舎町になってしまったアルルですが、それがかえって昔の町並みを残す結果となってよかったという方もいらっしゃいます。

南フランスへお越しの際にはぜひアルルへも足をお運びください!