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ハンブルクを交易都市として栄えさせた世界遺産!倉庫街とチリハウスを含む商館街特集!

 

今回ご紹介するのは世界遺産、ドイツの「ハンブルクの倉庫街とチリハウスを含む商館街」です。

皆さんはハンブルクの倉庫街とチリハウスを含む商館街についてご存じでしょうか。

ハンブルクはドイツ北部、ユトレヒト半島の付け根にあたる場所にあります。

エルベ川のほとりにあるこの町は古くから交易都市として栄え、中世にはハンザ同盟の主要として大きく発展していました。

「ハンブルクの倉庫街とチリハウスを含む商館街」はハンブルクが国際的な商業都市として爆発的に発展した19世紀から20世紀にかけて整備された倉庫街と商館街の事です。

そんなハンブルクの倉庫街とチリハウスを含む商館街の魅力について、歴史を踏まえながらご紹介していきたいと思います。

ハンブルクの歴史

6世紀以前には既にエルベ川河口の港湾として存在していた事が判明しています。

西暦808年にはフランク王国のカール大帝によって城塞が築かれ、3年後の西暦811年には大聖堂が建設されました。

この大聖堂はドイツ北部地域にキリスト教布教活動の中心地となりましたが、デーン人やスラブ人によって脅かされる事も多かったため、西暦834年に置かれた大司教座はわずか10年ほどでブレーメンに移されました。

西暦1189年、ハンブルクは第三回十字軍の遠征に貢献した報酬として神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世から船舶航行特許状を授けられました。

この特許上によってさまざまな経済上の特権が認められたハンブルクは交易都市として発展し、西暦1241年にはハンザ同盟の盟主都市だった帝国自由都市リューベックと、西暦1249年には同じくハンザ同盟の主要都市の1つだったブレーメンと防衛同盟を締結しました。

また同じ西暦1249年には領主のシャウエンブルク伯爵から広い自治権を認められ、貨幣を鋳造することも許されました。

ハンブルクはハンザ同盟に最後まで残った都市の1つでしたが、ハンザ同盟の規則を破り、イングランド人やネーデルランド人、ポルトガル人、ユダヤ人などに市民権を与える事もありました。

そのような背信行為を行っていたハンブルクでしたが、西暦1410年から100年おきに三回にわたって神聖ローマ皇帝から帝国自由都市として認められ、自治権を維持していました。

西暦1529年、宗教改革を受け入れたハンブルクはルター派やユダヤ人などが集まる町となります。

西暦1558年にはアントワープにあったアントワープ取引所をモデルにハンブルク証券取引所が設立されました。

ハンブルク証券取引所では、証券だけでなく、保険や債権、商品の取引も盛んに行われました。

西暦1619年にはハンブルク銀行が設立されます。

この銀行はドイツ初の金融振替サービスを提供していました。

西暦1618年からの三十年戦争ではハンブルクも大きな被害を被り、一時期は衰退しました。

しかし、フランスからフォンテーヌブローの勅令によって避難してきたユグノーを受け入れた事をきっかけに、ハンブルクは復興します。

1709年からアメリカへの移住が始まった。1720年、ユグノーに厚いプロイセン王国がオランダへ黄金海岸を売却した。このころよりサンクトペテルブルクの開発が進み、それに呼応してロシア帝国に干渉しオスマン帝国を攻撃するための、政治・経済・軍事拠点としてハンブルクは活躍するようになった。

18世紀後半のハンブルクはフランスからアメリカへの支払いと、イギリスから対仏大同盟諸国への支払いの決済で賑わいました。

取引量が急増し、順調に発展を続けるかのように思われましたが、西暦1810年にフランスのナポレオン軍によってハンブルクは占領されてしまいました。

西暦1815年に自由都市の地位を取り戻すと、ドイツ連邦に加盟しました。

この頃には中南米で多くの国がスペインやポルトガルの植民地から独立し、ヨーロッパとの貿易を決済してくれる銀行を求めていたため、ハンブルク銀行はこれに応じて取引量は急拡大しました。

西暦1842年にはハンブルクの大火と呼ばれる大規模な火災が発生します。

これによって市街地は壊滅的な被害を受け、古い建物が失われることになりました。

西暦1850年代からは南米からの貨物船の寄港量が急増し、倉庫街や商館街が整備され始めます。

西暦1880年代から本格的に整備された倉庫街と商館街が、後の世界遺産を後世している町並みです。

20世紀初頭にはハンブルクの手形交換所の取引額はベルリンの手形交換所と比較して、倍以上の金額となっていることからも、ハンブルクが国際商業都市として非常に発展していたことが窺えます。

第一次世界大戦中は取引量が減少しましたが、終戦後は再び活気が戻りました。

シュパイヒャーシュタット(倉庫街)

シュパイヒャーシュタットはエルベ川の中州にある19世紀以降に整備された倉庫街です。

建設当初は世界最大の倉庫街だったと言われており、現在でも世界最大規模の倉庫街として知られています。

倉庫街は西暦1885年から西暦1927年までに建設されたブロックに別れています。

第二次世界遺大戦ではいくつかのブロックは破壊され、終戦後も再建されませんでした。

再建されなかったブロックは世界遺産の構成資産からは除外されています。

倉庫街には旧ボイラー棟、旧中央動力棟、旧コーヒー取引所、旧有人火災報知棟、旧巻き揚げ機操縦士棟、旧税関の6つの世界遺産関連施設が残されています。

コントーアハウス地区(商館街)

コントーアハウス地区(商館街)は倉庫街に隣接するオフィス街です。

19世紀から20世紀にかけて建設されたオフィスビルはコントーアハウスと呼ばれています。

急増した貨物取扱量と、大規模な倉庫街に対応するように作られたコントーアハウスですが、この当時のハンブルクでは急激に進む合理化への反動からか、伝統的な建築様式を取り入れた建物を作る風潮があり、高層建築は禁止され、コントーアハウスも7~11階建てとするように決められました。

ドイツ北部では建物の建材としてレンガが使われることが多かったため、伝統的な用法を模索したコントーアハウスもレンガに注目して建てられました。

鉄骨鉄筋コンクリート製の建物の外装はレンガで覆われるようになり、急勾配の屋根といったドイツ建築の特徴も取り入れられました。

チリハウス

チリハウスは商館の中でも最も有名な建物で、チリ産の硝石取引で成功した財産を築いたハンブルクの豪商にちなんでこのような名前となっています。

チリハウスは建物の下に道路があり、もともとはこの道路を境に2つの建物が建設される予定でした。

最終的には通路を跨ぐ形で巨大な1つの建物となったことも、チリハウスが有名になった理由の1つです。

長大なファサードと、先鋭的なフォルムはその後のドイツ建築学にも影響を与えることになりました。

お役立ち情報

こちらではハンブルク観光に役立つ情報や豆知識をお伝えします。

ラプスカウス

ハンブルグはハンバーグステーキの語源とも言われていますし、他にも名物料理は数多くあるのですが、有名な料理となるとこのラプスカウスです。

ラプスカウスが有名な理由は美味しいからではなく、1回食べれば満足するからと言われています。

かつては船乗りたちが好んで食べていたというラプスカウスは、コンビーフとマッシュポテトを混ぜたものに目玉焼きを乗せて、ビーツやニシンを添えれば完成です。

味はともかく、昔の船乗りはビタミン不足で壊血病にかかる人が多かった中、このラプスカウスを食べると壊血病にかからないという噂が広まり、船乗りの間で大人気だった料理です。

コンビーフが嫌いでないのでしたら是非一度お試し下さい。

最後に

いかがでしたか。

これをきっかけにハンブルクの倉庫街とチリハウスを含む商館街に興味を持って頂けたなら幸いです。

人口175万人を数える、ドイツ有数の大都市ハンブルクは世界遺産以外にも見どころのある観光スポットが数多くあります。

リューベックとブレーメンのちょうど中間地点にあるため、この2つの町と併せハンザ同盟都市巡りというような楽しみ方もできる町で、バッハやメンデルスゾーン、ブラームスといったクラシックの音楽家達のゆかりの町でもあり、音楽の町としての側面も持っています。

実はビートルズがデビュー前に活動していたのもここハンブルクです。

サッカーが好きな方はドイツ一部リーグのブンデスリーガ所属チーム、ハンブルガーSVのゲームを観戦することもできます。

ドイツへ起こしの際には、是非ハンブルクへのご訪問もご検討下さい!