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チェコ共和国の世界遺産!クトナー・ホラ:聖バルバラ教会とセドレツの聖母マリア大聖堂のある歴史都市とは?

今回ご紹介するのは世界遺産、チェコ共和国「クトナー・ホラ:聖バルバラ教会とセドレツの聖母マリア大聖堂のある歴史都市」です。

皆さんはクトナー・ホラ:聖バルバラ教会とセドレツの聖母マリア大聖堂のある歴史都市についてご存じでしょうか。

クトナー・ホラは現在のチェコ共和国の中央部、ボヘミアにある町の名前です。

チェコ共和国の首都プラハから約70キロメートル東にあるこの町は、かつては豊富な銀の鉱山があったため大変栄えていました。

そんなクトナー・ホラ:聖バルバラ教会とセドレツの聖母マリア大聖堂のある歴史都市の魅力について、歴史を踏まえながらご紹介していきたいと思います。

クトナー・ホラの歴史

クトナー・ホラに最初の住民が定住したのは先史時代の事です。

周辺からは古代のケルト人の墳墓が発見されました。

クトナー・ホラが戦略上重要な地域と認識され始めたのは、10世紀前後とみられています。

付近からは10世紀のものと思われるディナール銀貨が発見されていますが、これが銀の採鉱と関連性があるかどうかは不明となっています。

また伝説では西暦799年に銀鉱山が発見されたと伝わっていますが、これは現時点では裏付けが取れていません。

西暦1142年にはチェコ初のシトー会による修道院がクトナー・ホラに近いセドレツに建設されました。

シトー会(シトー会修道会)とは、ベネディクト会修道会から分派した修道会で、ベルナルド会と呼ばれることもあります。

シトー会は厳律シトー会と(寛律)シトー会に分化しましたが、現在でも活動を続けていて、日本にもいくつかの修道院があります。

当時の修道院はカトリックの教義に基づいた神学の他にも、農業技術や建築技術、医療知識などを伝える役割も果たしていました。

13世紀に修道院の近くの山中で銀鉱脈が発見されると、それまであまり人の住んでいなかったクトナー・ホラに鉱山労働者や鉱山技術者が移り住むようになり、次第に大きな集落となっていきました。

集落が大きくなり、銀の産出量が増えるにつれて、算出した銀鉱石から工芸品を作る銀細工職人や、銀鉱石、銀細工から上がる利益を目当てにした交易商人などもあつまり、クトナー・ホラの集落はどんどん大きくなっていきました。

最盛期には、ヨーロッパで産出する銀の3割以上をクトナー・ホラ産の銀が占めるほどになっていました。

西暦1289年、それまでは銀目当てに自然と形成された鉱山集落だったクトナー・ホラは正式にボヘミア王国の町となり、ボヘミア国立造幣局が開設されました。

この造幣局で作られた銀貨はプラハ・グロシュと呼ばれてボヘミア国内だけでなく、広く中東欧に出回りました。

イタリア宮(ヴラシュスキー宮)と呼ばれる造幣局の建物は、ボヘミア国王の別荘も兼ねていたため歴代ボヘミア王がクトナー・ホラを訪れた際にはここに滞在しました、

豊富な銀鉱山を擁するクトナー・ホラはボヘミア王国では首都プラハに次ぐ重要な町となり、その戦略的価値に目を付けた神聖ローマ帝国皇帝は軍事的侵攻と政略結婚を駆使することでクトナー・ホラをボヘミア王位ごと手に入れました。

西暦1419年にヤン・フスを指導者とするカトリックに対する改革派であるフス派の反乱(フス戦争)が起きると当時の神聖ローマ帝国皇帝ジギスムントはクトナー・ホラをカトリック派の拠点にします。

西暦1421年にはフス派の中でも急進的なターボル派との間にクトナー・ホラの戦いが起こりました。

神聖ローマ帝国軍はターボル派との戦いに敗れ、クトナー・ホラはターボル派の手に落ちますが、その後休戦した際に神聖ローマ帝国軍は戦略上非常に重要な価値のあるクトナー・ホラがターボル派に利用されないように町に火を放ち撤退します。

西暦1440年にフス戦争が終わった頃にはボヘミアの人口は激減し、国力は衰え、クトナー・ホラの町からも鉱山労働者や鉱山技術者の姿は消えてしまっていました。

西暦1471年にボヘミア王に即位したウラースロー2世によって、クトナー・ホラの町は再建され、銀鉱山の操業も再開しましたが、銀鉱脈は底をつき始めていました。

徐々に枯渇する坑道が増えていき、西暦1541年には最大の坑道が閉鎖されました。

西暦1547年には銀産出量の減少にともなって国立造幣局が閉鎖されます。

17世紀にはペストの流行と三十年戦争の影響でクトナー・ホラの町はゴーストタウンと化してしまいました。

三十年戦争終結後もかつての景気が回復することはなく、細々と採掘を続けられていましたが、西暦1727年に全ての銀鉱山が閉鎖され、これ以降、クトナー・ホラが重要性を取り戻すことはありませんでした。

代表的建造物

聖バルバラ教会

西暦1380年に着工した聖バルバラ教会は、チェコ共和国内で最も美しいとされる教会の一つです。

ゴシック式のこの教会は、15世紀にはフス戦争の影響によって工事が中断し、16世紀には財源不足で工事が中断しました。

この教会の特徴は、建物の上部が尖塔や鐘楼ではなく、サーカスのテントのような尖った屋根になっていることころです。

イタリア宮(ヴラシュスキー宮)

イタリア宮(イタリアンコート)とも呼ばれているヴラシュスキー宮は、クトナー・ホラで銀が豊富に産出していた頃にはボヘミアの国立造幣局が置かれていました。

ここで宙蔵されたプラハ・グロシュは銀の含有率が高く、ヨーロッパ各国で流通していました。

聖母マリア大聖堂

セドレツの聖母マリア大聖堂は、上から見るとラテン十時形の主聖堂から左右に両翼が伸びるような形をしています。

チェコ初のシトー会修道院が建てられていた場所に、西暦1300年頃建設されたのがこの聖母マリア大聖堂です。

建設当時はボヘミア最大のゴシック式大聖堂でしたが、第二次世界大戦後、共産圏に組み入れられたことで由緒正しい大聖堂もタバコ工場として使用されていました。

現在でも北翼の建物はタバコ博物館となっています。

セドレツ納骨堂

クトナー・ホラ近郊の町、セドレツにあるセドレツ納骨堂は、約4万人の人の骨が収められています。

この中の1万人分の骨を使って礼拝堂内部の装飾を行っている事で有名な納骨堂です。

この納骨堂があるセドレツ墓地は、シトー修道会のハインリヒという修道士がエルサレムから持ち帰ったゴルゴダの丘の土によって聖別され、神聖な墓地とみなされていたため、ボヘミアだけでなく、ポーランドやドイツからも埋葬を希望する人が押し寄せるほどの人気のある墓地だったのです。

骨で作られたシャンデリアや聖杯、尖塔などは他では見られないインパクトのある代物で、クトナー・ホラとセドレツで最も印象的なスポットとなっています。

お役立ち情報

こちらではクトナー・ホラ観光に役立つ情報や豆知識をお伝えします。

ダチツキー

クトナー・ホラの名物と言えば、チェコビールのダチツキーです。

ちなみにチェック語ではビールではなくビェールと言います。

ダチツキーはクトナー・ホラで作られている地ビールで、日本では手に入らないと言われています。

念の為、アマゾンと楽天で検索してみましたが、ヒットしませんでした。

ダチツキービェールで有名なのは黒ビールで、クトナー・ホラを訪れた人の多くがこの黒ビールを味わって帰るそうです。

ダチツキーはレストランも営業していて、ここではチェコの伝統的な料理とビール、ワインを楽しむ事ができます。

残念ながらホームページはチェック語、英語、ロシア語にしか対応していませんが、料理の写真が掲載され、地図も載っていますので興味のある方はご覧下さい。

最後に

いかがでしたか。

これをきっかけにクトナー・ホラ:聖バルバラ教会とセドレツの聖母マリア大聖堂のある歴史都市に興味を持って頂けたなら幸いです。

日本ではあまり存在感の無いチェコですが、ヨーロッパ、特に神聖ローマ帝国の歴史を学ぶと、非常に重要な地域であることがわかります。

一番有名なのはやはり首都のプラハですが、その他にも数多くの有名な町があり、クトナー・ホラはその中の1つです。

セドレツの納骨堂はハリウッド映画や小説の挿絵などにも使われたことがありますので、もしかしたら見たことがある方もいらっしゃるかもしれません。

人骨で調度品を作るという考えは一見狂気のようにも映りますが、その真意は「死は常に生と隣り合わせにある」という事を表現したかったのだそうです。

クトナー・ホラはチェコの首都プラハから電車を使って1時間程度の距離ですので、プラハからの日帰り旅行も十分可能です。

チェコ共和国へお越しの際には、是非クトナー・ホラへも足をお運び下さい!