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2つの文化が溶け合う街!世界遺産ストラスブールのグラン・ディルに迫る!

今回ご紹介するのは世界遺産、フランスの「ストラスブールのグラン・ディル」です。

皆さんはストラスブールのグラン・ディルについてご存じでしょうか。

ストラスブールはフランスとドイツとの国境近くにあり、歴史的にもドイツ圏だった時代の方が長い町です。

そんなフランスの世界遺産、ストラスブールのグラン・ディルの魅力について、歴史を踏まえながらご紹介していきたいと思います。

ストラスブールの歴史

ストラスブールの歴史は古く、古代ローマ帝国の時代までさかのぼります。

ストラスブールが初めて歴史に登場するのは紀元前12年の事でした。

当時のストラスブールは「アルゲントラトウム」という名前のローマ植民市で、ここよりも東、ライン川の向こうからがゲルマニアとされていました。

西暦362年にはキリスト教のカトリック司教座が設置されます。

その後、西暦455年にはアッティラに率いられたフン族の乱入によって町が破壊されましたが、フランク王国によって再建されました。

ストラスブールは中世を通して神聖ローマ帝国に服属していましたので、ストラスブールではなく、ドイツ語名のシュトラースブルクと呼ばれていました。

西暦362年から長らくシュトラースブルク司教領でしたが、西暦1262年にストラスブール司教の統治に反抗した市民がハウスベルゲンの戦いで当時のシュトラースブルク司教軍を破り、神聖ローマ帝国の帝国自由都市の地位を獲得します。

帝国自由都市になった後のストラスブールはライン川を利用した水運や毛織物産業によって大きく発展しました。

ルネッサンス期には宗教戦争の弊害を避ける為、西暦1523年には既に新教徒を受け入れ、カトリックとプロテスタントの双方が教会を建設しました。

早い段階から新教徒を受け入れたストラスブールでは宗教的な軋轢が少なかったと言われています。

17世紀に入ると神聖ローマ帝国が三十年戦争で疲弊し国力が衰退したのを好機とみたフランス王国のルイ14世太陽王によってアルザス=ロレーヌ地方が占領されます。

その後西暦1697年に、大同盟戦争の講和条約であるレイスウェイク条約によって、フランス王国はロレーヌ公国を返還する代わりにシュトラースブルクを獲得し、ここから名前もフランス風のストラスブールと改名されました。

19世紀末、西暦1870年には、勃興してきたプロイセン王国とフランス帝国との間に普仏戦争が勃発します。

この戦争はドイツ圏統一を目指すプロイセン王国と、プロイセン王国の台頭を嫌ったフランス帝国との間に起こった戦争で、プロイセン王国側にはドイツの多くの領邦国家が参戦していたことから、独仏戦争、あるいはプロイセン=フランス戦争、1870年戦争とも呼ばれています。

この戦争は当初フランス側が有利と見られていました。

フランス帝国軍の兵士はベテランが多く、プロイセン王国軍よりも優秀な新型銃を装備していたからです。

実際に開戦当初はフランスが優勢に戦争を進めました。

しかし、フランス軍40万人に対して、プロイセン軍は徴兵制度による120万の軍隊を有していた為、数で劣るフランス軍は次第に包囲されて行きます。

また、この当時のプロイセン王国では参謀制度の創設によって司令部の指揮能力が格段に向上していました。

最終的にはセダンの戦いでフランス皇帝ナポレオン3世(シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト)を捕虜にしたプロイセン王国が勝利しました。

皇帝が捕虜となった後もフランスは徹底抗戦の構えを見せましたが、プロイセン軍はパリを包囲し、飢餓状態に陥ったパリは降伏しました。

西暦1871年にはフランクフルト講和条約が結ばれ、これによってアルザス=ロレーヌ地方はドイツ帝国領となりました。

しかし、この領土併合によってフランス人の間にはアルザス=ロレーヌ地方の奪還という共通意識が生まれ、第一次世界大戦で連合国側が勝利するとアルザス=ロレーヌ地方は再びフランス領に戻りました。

第一次世界大戦のヴェルサイユ講和条約は、普仏戦争の報復としての側面があったと言われています。

フランスはドイツによるさらなる報復を恐れ、失った旧領の復帰や戦時賠償金だけではなく、未来永劫に渡ってその交戦力を喪失させようとしたそうです。

その結果ヴェルサイユ講和条約は極めて過酷な条約となり、これが元で第二次世界対戦に発展してしまいました。

第一次世界大戦に続き、第二次世界大戦でもストラスブールはナチスドイツとフランスの交戦地域となり、西暦1940年にはドイツ第三帝国領に組み込まれています。

その後西暦1944年に連合国軍によって解放されました。

現在のストラスブールには国際期間が数多くおかれ、「ヨーロッパの歴史を象徴する町」と言われています。

代表的建造物

ストラスブールのノートルダム大聖堂

ストラスブールのノートルダム大聖堂は、西暦1176年から西暦1439年まで約250年の時間をかけて建設されたゴシック式の大聖堂です。

ストラスブールの地盤が弱い事から、尖塔が片方しかないこの大聖堂は、建設当時はフランスで一番高い大聖堂でした。

ロアン宮

西暦1732年にストラスブール司教の宮殿として建設されました。

フランス革命で処刑された王妃マリー・アントワネットや、皇帝となった後のナポレオンも訪れたというイル川に面したこの宮殿は、優雅な外観と豪華な内装で知られています。

カメルゼル邸

カメルゼル邸はノートルダム大聖堂広場にある黒っぽい家です。

西暦1571年建築のルネサンス指揮の木造建築で、ノートルダム大聖堂の目の前にあることもあり、ストラスブールではかなり有名な建物です。

西暦1904年からはアルザス地方の郷土料理を提供するレストランとして営業していて、現在ではストラスブールで最も伝統的なレストランの一つとなっています。

プティット・フランス

この地域はフランソワ1世にちなんでプティット・フランスと呼ばれています。

まるで中世の町並みにタイムスリップしたかのような錯覚に陥るくらい、古い町が良く保存されているこのプティット・フランスにはかつてはなめし革職人達が住んでいました。

16世紀から17世紀に数多く建築されたハーフティンバー式の建物がそのまま残されていて、非常に赴きのある風景が広がっています。

運河に面したこの地域は、「ストラスブールの小さなヴェネツィア」と言われることもあるのだとか。

役立つ情報&豆知識

こちらではストラスブール観光に役立つ情報や豆知識をお伝えします。

名物料理

ストラスブールの名物料理はシュークルート・アルザシアンという自然発酵させたキャベツを使った料理です。

自然発酵させたキャベツを、野菜や豚肉と一緒に白ワインで煮た料理で、ジャガイモとソーセージと組み合わせるのが最も伝統的なシュークルート・アルザシアンです。

アルザシアンといのはアルザス風という意味の言葉です。

ヴィンシュテュブ

アルザス地方ではヴィンシュテュブという居酒屋が数多く見られます。

ヴィンシュテュブとはワインの部屋という意味で、気軽に入れるワインダイニングバーといった雰囲気です。

地元の人々が数多く集まっていますので、いかにもアルザスという雰囲気を味わいたかったらレストランよりもヴィンシュテュブの方が良いかもしれません。

提供される料理も、現地の庶民的な食べものばかりです。

最後に

いかがでしたか。

これをきっかけにストラスブールのグラン・ディルに興味を持って頂けたなら幸いです。

グランディルというのは、グランドゥ・イルの略で、イル川の中州を指しています。

歴史的にはストラスブールの中心部だった場所の事で、日本語のガイドブックなどでは旧市街と訳しているものもあります。

ご紹介したようにストラスブールはフランスでありながらも文化的にはドイツ文化圏に属していた為、ワインの生産量もフランスで人気のある赤よりもドイツで人気のある白が多かったり、様々な種類のソーセージが売られていたり、ビール生産量がフランスで一番だったりします。

まさに2つの文化が溶け合うという表現がぴったりの町がストラスブールです。

現在はパリからTGV(フランス高速鉄道)で約2時間半で訪れる事が可能になった為、旅行日程に組み入れやすくなりました。

フランスへご旅行の際には、ドイツとフランスの溶け合う町ストラスブールへの日程も是非ご検討下さい!