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ギリシャの世界遺産!ロードス島の中世都市の全貌をご紹介!

今回ご紹介するのは世界遺産、ギリシャの「ロードス島の中世都市」です。

皆さんはロードス島の中世都市についてご存じでしょうか。

ロードス島の中世都市とは、中世にこの島を統治していた聖ヨハネ騎士団が作った城塞都市の事で、当時圧倒的な軍事力を誇ったオスマントルコ帝国との間のロードス島の戦いでは圧倒的な戦力差がありながらも約半年の間戦い続けました。

このときの城塞都市がロードス島の中世都市です。

そんなギリシャの世界遺産、ロードス島の中世都市の魅力について、歴史を踏まえながらご紹介していきたいと思います。

ロードス島の歴史

ロードス島はギリシャ本土のペロポネソス半島よりも、トルコ本土のアナトリア半島にずっと近い位置に浮かぶ、ギリシャで4番目に大きな島です。

この島には紀元前7000年頃には既に人類が住んでいた形跡がありますが、遺跡らしい遺跡は出土していません。

人類の足跡が明らかになるのは、紀元前16世紀頃にクレタ島からミノア文明が伝わった時期から後のことになります。

紀元前15世紀には後にイオニア人とも呼ばれるアカイア人が渡来し、紀元前11世紀にはドーリア人が渡来しました。

ドーリア人はアナトリア半島の3つの都市と、ここロードス島に建設したリンドス、イアリソス、カメイロスの3つの都市を主な根拠地としていました。

紀元前500年頃、アケメネス朝ペルシャがアナトリア半島まで勢力圏を広げた時には、ロードス島もその存立を脅かされました。

ペルシャ大王ダレイオス1世とその息子クセルクセス1世によるギリシャ侵攻戦争、ペルシャ戦争が一応の終結を見せた紀元全478年にロードス島はアテナイそ盟主とするデロス同盟に加わりました。

デロス同盟はもともと対ペルシャ戦争を想定した軍事同盟で、各ポリスが軍船を出し合って連合艦隊を編成し、軍船を出せないポリス(都市国家)は軍資金を供出するというものでした。

この軍事同盟は脱退を企てたポリスに対する制裁が厳しいことでよく知られており、軍事占領や制裁金を課されるポリスもありました。

紀元全431年に、スパルタを中心とするペロポネソス同盟とアテナイを中心とするデロス同盟の間に戦争が勃発します。

この戦争をペロポネソス戦争と言います。

それまではギリシャ世界の外側に共通の敵であるアケメネス朝ペルシャがいたために、利害が一致しない部分があってもなんとか折り合いをつけてやっていたギリシャのポリスでしたが、外敵がいなくなった事によって対立が激化してしまい、ついにギリシャ人同士での戦争に発展してしまったのです。

ロードス島のポリスはデロス同盟の一員ではあったものの、距離的に遠く、海によって隔たれていることなどから、陸軍を主体とするペロポネソス同盟から攻撃される可能性が低いと判断したのか、デロス同盟の一員でありながら対ペロポネソス同盟に対しては中立に近い立場を取り続けました。

紀元全357年にアナトリア半島のポリス、ハリカルナッソスのマウスロス王がロードス島を征服し、その後紀元全340年にはアケメネス朝ペルシャの支配下に入りました。

しかし、ペロポネソス戦争によって疲弊したギリシャのポリスを統一したマケドニアの大王アレクサンドロス3世によって紀元全332年にはアケメネス朝ペルシャの支配下から脱出しました。

遙か遠く、エジプトやインドまでを征服したアレクサンドロス大王でしたが、その死後、配下の将軍達が後継者の座を争ってディアドコイ戦争が勃発します。

このディアドコイ戦争の結果、アレクサンドロス大王が築き上げた巨大な帝国は、プトレマイオス1世によるプトレマイオス朝エジプトと、セレウコスによるセレウコス朝シリア、

アンティゴノス朝マケドニア、カッサンドロス朝マケドニア、リュシマコス朝トラキアなどの複数の王国に分裂してしまいました。

ディアドコイ戦争では、ロードス島はプトレマイオス朝エジプトとの関係が強かった為、ロードス島の海軍力がプトレマイオス朝エジプトと結びつくのを恐れたアンティゴノス朝マケドニアによって攻撃されました。

後のアンティゴノス朝マケドニア2代目の王デメトリオスは大軍を率いてロードス島を攻撃しましたが、守備側がよく守った為これを攻略することができず、アンティゴノス、プトレマイオス共に長期戦を望んでいなかった為、両国の間に和平が成立し、ロードス島には平和が戻ってきました。

紀元前190年にはセレウコス朝シリアによって攻撃されましたが、このときも防衛に成功します。

紀元前164年には古代共和制ローマと条約を締結し、ローマの重要な同盟市として厚遇されました。

ローマの、ロードス島に対する待遇は次第に悪化していき、カエサルの死をきっかけにした混乱期にはローマ軍による略奪も発生しました。

西暦297年にはローマ同盟市からローマ帝国領に組み込まれ、東西ローマ分裂後は東ローマ帝国に編入されました。

西暦395年のローマ帝国の東西分裂後から約900年間東ローマ帝国領であったロードス島ですが、西暦1309年にホスピタル騎士団とも呼ばれていた聖ヨハネ騎士団によって占領されてしまいます。

島を占領した聖ヨハネ騎士団は外敵の侵攻に備えて都市の要塞化を進めました。

世界遺産に認定されている構成資産はこの時期に作られた物です。

聖ヨハネ騎士団によって要塞化されたロードス島は、西暦1444年のマムルーク朝エジプトによる侵攻や、西暦1480年の、東ローマ帝国を滅ぼしたオスマントルコ帝国のメフメト2世による侵攻を防ぎきりましたが、西暦1522年、オスマントルコ帝国最盛期の大帝スレイマン1世の20万に及ぶ大軍と約半年戦った末に遂に陥落しました。

ロードス島の戦い

ロードス島の中世都市が世界遺産になった事には、西暦1522年のオスマントルコ帝国とのロードス島の戦い(ロードス包囲戦)が大きく関わっています。

西暦1522年6月26日、オスマントルコ帝国の将軍ムスタファ・パシャ率いる400隻の大船団がロードス島近海に現れました。

続く7月28日にはスレイマン大帝自らが率いる10万の軍勢がロードス島に上陸します。

オスマントルコ帝国軍20万に対してロードス島側の兵力は聖ヨハネ騎士団+傭兵部隊+ヴェネツィア共和国軍+住民の合計でも7000を超えず、30倍から35倍の戦力差がありました。

既にロードス島の周りのキリスト教勢力は全てオスマントルコ帝国によって撃退されていて近隣からの援軍を期待出来ない状況です。

ロードス島は単独で巨大なオスマントルコ帝国と戦うことになりました。

西欧のキリスト教諸国は遠く離れたロードス島に関心が無いため、どこの国も援軍を派遣しませんでした。

ただ1国、地中海の制海権に大きく国運が左右されるヴェネツィア共和国は比較的ロードス島から近いクレタ島に拠点を有していることもあり、援軍を派遣しました。

オスマントルコ海軍は海上を封鎖し、上陸軍は城塞に砲火を浴びせ続けました。

火砲による砲撃を行いつつ、工兵部隊によって城壁の地下からの潜入作戦を進め、イングランド砦と呼ばれた箇所の城壁の破壊に成功すると、大部隊を投入してイングランド砦を占領しました。

しかし、守備側も必死の反撃によってこれを奪い返し、崩落した城壁を修復しました。

籠城戦の開始から3ヶ月以上が経過した9月24日、この戦いを通して最大規模の攻撃が城塞に加えられました。

4カ所の砦に対しての同時総攻撃です。

特にスペイン砦は最大の激戦となり、2回に渡ってオスマントルコに占拠されたところを奪い返しました。

結局この日の戦いでも城は陥落しなかった為、スレイマン1世はムスタファ・パシャを更迭し、攻城戦が得意なアフメト・パシャを司令官に任命しました。

11月の終わり頃、最後の総攻撃がかけられました。

オスマントルコ帝国によるこの攻撃でも、城を陥落させることはできませんでした。

しかしこの段階でもはや守備側の戦えるものは全員武器を取って戦い、誰もが傷を負っていました。

オスマントルコ側でも長引く戦闘による被害は甚大となっており、広がる厭戦気分は大帝スレイマン1世のカリスマを持ってしても食い止める事はできない状態になっていました。

この状況で、スレイマン1世は聖ヨハネ騎士団とロードス島に対して降伏勧告を行いました。

降伏した場合には、全市民の身の安全と食料を保証するという内容で、過去のオスマントルコ帝国が出した降伏条件と比較しても格段に緩い条件となっていました。

聖ヨハネ騎士団は戦いを継続しようとしましたが、市民は降伏を訴えたため、遂に騎士団もオスマントルコ帝国と和平交渉を行います。

しかし、この交渉はロードス島側がさらなる譲歩を引き出そうとしたために決裂し、戦闘が再開されました。

12月17日には最大の激戦区だったスペイン砦が占拠されます。

全城塞の陥落まで秒読みになった12月20日、聖ヨハネ騎士団長リラダンはスレイマン1世に最後の交渉を申し出ました。

12月22日、聖ヨハネ騎士団とロードス市民はスレイマン1世が提示した降伏案を受け入れました。

この降伏案は当初の降伏案よりも更に寛大な内容となっており、騎士団は1月2日までに島を退去する事とされましたが、武器、宗教具、宝物、絵画などは自由に持ち出してよく、市民は3年以内の離島または5年間の免税を選ぶ権利を与えられました。

ルーム・カエサリ(ローマ皇帝)の称号を名乗っていた事が影響していたのかもしれませんが、この時のスレイマン1世は伝統的に宗教に寛容だったオスマントルコの皇帝と比較しても特別に寛大な処置を行ったと言えるでしょう。

寛大な皇帝の処置に市民が反乱を起すことも、オスマントルコ軍によってキリスト教の教会が破壊されることも、街が略奪されることもありませんでした。

西暦1523年1月1日に、騎士団の最後の部隊が住民を引き連れてヴェネツィア領クレタ島に撤退しました。

スレイマン1世は降伏時の約束を守った為、敗軍であったにも関わらず、騎士団旗を高く掲げ、軍楽を奏で、正装しての港まで行進するという、凱旋のような撤退ぶりでした。

もしかしたらスレイマン1世やオスマントルコ帝国の将軍の心のどこかには、圧倒的劣勢にも拘わらず、長きに渡って戦い抜いた勇者の名誉を称えたいという気持ちがあったのかもしれませんね。

代表的建造物

騎士団長の館

ロードス島の中世都市は中世の町並みが良好な状態で保たれているため、代表的建造物を見て回るというよりは、町並み全体を楽しんで頂きたいのですが、最も代表的な建造物を挙げるとすれば騎士団長の館となります。

旧市街の西北に位置するこの建物は、館と言うよりは要塞といった方が近い作りで、内部にもあまり過度の装飾品が少なく、質実剛健を旨とした騎士団の当時の様子が偲ばれます。

アンボワーズ門

騎士団長の館のすぐ西側にある城門がアンボワーズ門です。

この門は細い通路を銃眼のついた分厚い胸壁が挟む形になっており、少数で多数を迎え撃つことが可能となっていました。

外側から見る門はまさに堅牢な城門といった風体です。

門の名前は城門の建設を命じた16世紀の騎士団長アンボワーズから名付けられているそうです。

騎士団の病院

現在考古学博物館として利用されている建物は、かつでは聖ヨハネ騎士団の病院でした。

聖ヨハネ騎士団はホスピタル騎士団ともいい、もともとはエルサレムの宿泊施設で医療活動に従事していた集団から始まっているのはご存じでしょうか。

この島に移ってきた時には医療活動よりも軍事活動にかなり傾倒してはいましたが、昔ながらに病院の運営も行っていたのです。

役立つ情報&豆知識

こちらではロードス島観光に役立つ情報や豆知識をお伝えします。

『ロードス島攻防記』 新潮社 塩野七生

西暦1522年のロードス島攻防戦について詳しく知りたいという方にはこの小説をお勧めします。

塩野七生さんの描く世界は科学的資料と史実に基づいているため、まるで当時を見てきたかのような情景を思い浮かべさせられます。

圧倒的劣勢の中、どのようにして聖ヨハネ騎士団が戦い、そして去って行ったのか、小説好きでなくともスイスイと読み進められる秀作です。

ロードス島の巨人像伝説

ロードス島には太陽の神ヘリオスの青銅像が立っていたという伝説があります。

ディアドコイ戦争中にロードス島攻略に乗り出したアンティオゴノス朝マケドニアの王子デメトリオスを撃退した際に、勝利を記念して鋳造されたと言われるこの像は、古くはロドスの湾口を股にかける形で立っていたと信じられていました。

紀元全226年に地震によって倒壊したとされているこの像は、高さ34メートルあったと伝わっています。

しかし、この地震によって倒壊した際に、再建すると災いが降りかかると恐れられたことから再建されず、今となってはどのような姿であったのか想像する術もありません。

最新の物理学者による研究では、湾口を跨ぐ形で像を鋳造した場合には、34メートルよりも遙かに巨大になり、耐久性も悪くなる為、当時の技術で実現できたとは思えないという結論が出ています。

この伝説は世界7不思議の1つとも言われていますので、知っている方もいるかもしれませんね。

最後に

いかがでしたか。

これをきっかけにロードス島の中世都市に興味を持って頂けたなら幸いです。

中世の都市としてのロードス島は、ムスリムとの戦いに備えて城塞の強化に努めた結果、当時の水準としては抜群の防衛力を誇りました。

その防衛力を以てしても、コンスタンティノープルやベオグラードといった当時でも有数の城郭を攻略してきたオスマントルコ帝国の精鋭部隊による総攻撃に半年も耐えたのは、まさに奇跡的な出来事としか言いようがありません。

世界には数多くの世界遺産があり、中には予備知識を持たない方が純粋に楽しめる世界遺産も数多くありますが、このロードス島の中世都市はその逆で、予備知識を持っていた方が何倍も楽しい世界遺産の一つだと思っています。

ここまで長いお話にお付き合い頂いた皆様は、もうロードス島の中世都市を満喫する準備が出来ていると思います。

次回の海外旅行先には、是非ギリシャのロードス島もご検討下さい!