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エジプトの世界遺産!古代都市テーベとその墓地遺跡とは?

 

今回ご紹介するのは世界遺産、エジプトの「古代都市テーベとその墓地遺跡」です。

皆さんは古代都市テーベとその墓地遺跡についてご存じでしょうか。

古代都市テーベとその墓地遺跡はエジプトのナイル川中流域、テーベ(現ルクソール)に建設された古代都市と王家の谷、王妃の谷と呼ばれている墓地遺跡群などから構成されている世界遺産です。

エジプトのファラオの墓というとギザの巨大ピラミッドをイメージする方が多いかもしれませんが、王家の谷には何人ものエジプト王が埋葬されていて、かの有名なツタンカーメン王の墓もこの王家の谷にあります。

そんな古代都市テーベとその墓地遺跡の魅力について、歴史を踏まえながらご紹介していきたいと思います。

 

古代都市テーベとその墓地遺跡の歴史

テーベは紀元前3200年頃には既に人が定住していた形跡がある、とても古い町です。

古代エジプトではテーベはワセトと呼ばれていました。

メンフィスにファラオの王宮があった時代のテーベはまだナイル側添いの小さな村でした。

中王国時代に建設されたカルナック神殿が最古の建造物で、それ以前のものは現存してはいませんが、中王国時代よりも古い、古王国時代の第5王朝のファラオ、ニウセルラー王の像がカルナックで発見されているため、古王国時代には既にこの場所に神殿があったのではと言われています。

第一中間期には上エジプト北部に興ったエジプト第9王朝、第10王朝が北部を統一し、一方南部はテーベに興った第11王朝によって統一されました。

この時代にはエジプト全体を統一する世王朝は現れませんでした。

紀元前2050年頃、テーベのエジプト第11王朝はヘラクレオポリスの第10王朝を制服して、エジプト全体を統一します。

この第11王朝と、後継の第12王朝の時代をエジプト中王国時代といいます。

首都は第11王朝ゆかりの地であるテーベに置かれました。

エジプト統一を成し遂げたメンチュホテプ2世(ネブヘテプラー)は51年間という長い年月に渡ってエジプトを統治しました。

この時代に建設された最初の葬祭殿は、第18王朝時代に建設された葬祭殿にも影響を与えていると言われています。

メンチュホテプ2世(ネブヘテプラー)の死後わずか20年で第11王朝は滅亡し、宰相だったアメンエムハト1世が即位して第12王朝が始まりました。

第12王朝は宮殿をテーベからイチ・タウィに移しましたが、この頃にはテーベの地方神だったアメン神が王国全体で崇拝されるようになっていたため、宗教的中心地として栄えました。

この頃のテーベは碁盤目状の町並みを持つ大きな都市であったことが判明しています。

第12王朝の時代には、ヌビア以外への外征はほとんど行われず、エジプト国内には長い平和な時代が訪れました。

200年以上続いた第12王朝は紀元前1782年に滅亡しました。

第13王朝から第17王朝までの時代はエジプトを統一する勢力は現れず、エジプト第2中間期と呼ばれています。

第12王朝から第13王朝への権力の委譲は速やかに行われましたが、王権の衰えを止めることはできず、ヌビアはエジプトに反旗をひるがえし、独立しました。

カナン人(フェニキア人?)の集団がナイルデルタに現れ、第14王朝を建国します。

その後に続いて現れたヒクソスはアヴァリスを攻略して第14王朝を陥落させます。

ヒクソスが建国した第15王朝はテーベにあった第16王朝と交戦しましたが決着は着きませんでした。

ヒクソスの第15王朝とテーベの第16王朝は話し合い、しばらくは第15王朝はヌビアとの交易のために第16王朝を越えてナイル川上流まで到達することができたし、第16王朝も下エジプトを訪れる事ができるようになりました。

また第15王朝は下エジプトだけでなく、隣接するパレスチナにも勢力を伸ばしていました。

その後テーベに第17王朝が興り、ヒクソスの第15王朝を滅ぼしてエジプト統一を果たしました。

この統一より後の時代をエジプト新王国時代と言い、最初の王朝を第18王朝と言いますが、第18王朝と第17王朝は完全に同じ王朝で、統一前と統一後に政体や王家の変化はありません。

統治者も同じイアフメス1世ですが、歴史上の一大契機となったため、便宜上統一後の王朝を第18王朝と呼んでいます。

新王国時代のエジプトは、第15王朝がパレスチナに逃げるとこれを追ってパレスチナに侵攻し滅ぼしました。

このような経緯があったせいなのか、第18王朝はそれ以前の統一王朝とは異なり、パレスチナ、シリアなどナイル川流域以外の地域へも積極的に侵攻しました。

新王国時代も王都は以前と同じくテーベに置かれました。

世界遺産の構成資産にもこの新王国時代に建設された遺跡が数多く含まれています。

イアフメス1世を継いだアメンホテプ1世はカルナック神殿の拡張や内政に力を入れ、外征はあまり行いませんでした。

イアフメス1世によってヌビアとパレスチナが勢力下に組み込まれていたため、周辺にエジプトに挑戦する勢力が少なかった事も大きな理由かもしれません。

紀元前1524年頃に即位したトトメス1世は積極的に外征を行い、メソポタミア上流を本拠地とするミタンニ国と争いました。

この戦争はエジプトが有利に進め、ユーフラテス河畔の都市、カルケミシュまでを領土に収めました。

この時代に王家の谷も開発されます。

それ以前のエジプトのファラオの墓が盗掘にあっているのを知っていたトトメス1世は自らの墓が盗掘に遇わないように、地下に洞窟を作ってそこを死後の住居とすることを考えたと伝わっています。

トトメス1世の死後は、トトメス2世、トトメス3世と王位が継承されますが、トトメス3世が即位した時には幼かったためトトメス2世王妃ハトシェプストが実権を握っていました。

ハトシェプストは戦争を嫌い、内政や交易を好んだため、地中海沿岸との交易が増加し、エジプトはますます豊かになって行きました。

しかし、外征を行わないことからシリア・パレスチナ地方の町は徐々にミタンニ国側に就いていきます。

紀元前1458年頃にハトシェプスト王妃が政権から退き、トトメス3世が実権を握るとパレスチナ・シリアへ方面へ積極的に進出し、一度は離反していた諸侯もエジプトの支配下に戻りました。

ここからエジプト新王国は最盛期を迎え、アメンホテプ2世、トトメス4世、アメンホテプ3世の時代も国力は安定していました。

しかし、このころには王権に対してアメン教団の神官勢力の増長が著しくなっていて、ファラオと司祭の間で摩擦が起こっていました。

そこで紀元前1346年頃、アメンホテプ4世は首都をテーベからテル=エル=アマルナに移すとともに王名もアクエンアテンと改名し、アメン神信仰を排除してアテン神信仰を広めようとしました。

この政策をアマルナ宗教改革と言います。

アテン神信仰は世界初の一神教とも言われていますが、ファラオと側近以外には広まらなかったため、アメンホテプ4世(アクエンアテン)の死後はアテン神信仰は廃れ、再びアメン教団が勢力を回復しました。

テル=エル=アマルナに王宮が置かれていた期間のエジプトは外征を控えて内政に集中したため、アマルナ美術と呼ばれる芸術が栄えましたがシリア・パレスチナ方面の領土や属国を失う結果にもなりました。

アマルナ美術の作品の内、最も有名なものはアメンホテプ4世(アクエンアテン)の王妃ネフェルティティの胸像で、ドイツのベルリンにあります。

紀元前1333年に即位したツタンカーメンはアメン信仰に復帰し、王都をテーベに戻しました。

このツタンカーメンの王墓は王家の谷の中で唯一盗掘に遇わず、副葬品が全て現存していたことでも有名です。

その後第18王朝の血統が途絶えたため、第19王朝のラムセス1世へ王権は引き継がれ、新王朝がスタートします。

第19王朝のラムセス2世の頃に、古代エジプトは最盛期を迎えます。

紀元前1274年にはシリア北部でアナトリア半島に本拠地のあるヒッタイトと激突したカデシュの戦いの講話条約は世界最古の平和条約と言われ、ヒッタイトの首都ハットゥシャから出土した粘土板で内容が確認されています。

ラムセス2世以降、古代エジプト王国は約1,000年続きましたが国力は衰え続け、その領土も徐々に縮小していきました。

代表的建造物

カルナック神殿

カルナック神殿は、テーベの守護神であるアメン神に捧げられた神殿です。

中王国時代にテーベがエジプトの首都となってからは、アメン神は太陽神であるラーと融合し、エジプトの最高神アメン・ラーとなって広く信仰されるようになりました。

カルナック神殿には当時現世の王でありアメン・ラーの化身でもあったファラオが住む宮殿でもあり、天文学などの研究所としての役割もあったといわれています。

中王国時代中期に建設されたカルナック神殿は、その後歴代のファラオが寄進を行ったため、時代が下るほどに巨大な神殿となっていきました。

現在でもラムセス2世の残した大列柱室やハトシェプスト王妃の残したオベリスクが残っており、多くの観光客が訪れています。

ルクソール神殿

ルクソール神殿は新王国時代にカルナック神殿の副神殿として建設されました。

年に1度、ナイル川が増水する時期に、アメン・ラー神が女神ムトと過ごすという神話に基づく「オペト祭」のために建設されたこの神殿は、当時はカルナック神殿と参道で直結していたと伝わっています。

ラムセス2世の中庭とアメンホテプ3世の中庭を結ぶ大列柱室の壁面には、オペト祭の様子が描かれています。

カルナック神殿から運ばれたアメン・ラー神、ムト神、コンス神の像はルクソール神殿で20日間ほどを過ごし、その間ファラオや神官達によって神に捧げる儀式が行われました。

また、このとき用意された食事は庶民にも振る舞われたため、エジプトの庶民はこのお祭りを楽しみにしていたといいます。

ルクソール神殿の第1塔門前にあるオベリスクは、実は本来2本あったのですが、1本はフランス、パリのコンコルド広場にあります。

これは略奪ではなく、エジプトの太守ムハンマド・アリーが半独立した時にフランスにプレゼントしたもので、フランスからは返礼として時計塔が送られています。

王家の谷

王家の谷はテーベ付近のナイル川西岸にある岩窟墓地群の名前です。

古代エジプトでは、西を死者の世界、東を生者の世界と捉えていたため、ナイル川西岸のこの地域に王墓が建設されました。

この土地に初めて墳墓を作ったのはトトメス1世で紀元前1250年頃の事です。

数多くのファラオの墓がある王家の谷ですが、ほとんどは長い間に盗掘の被害にあっており、唯一無事だったツタンカーメンの副葬品、黄金のマスクは人類の至宝とも言われています。

王妃の谷

王家の谷から近い王妃の谷には、歴代の王族が埋葬されています。

王家の谷はファラオだけですが、王妃の谷には王妃だけでなく、王子、王女など、ファラオ以外の王族が多数埋葬されました。

王妃の谷は約80の墳墓が発見されており、その多くはエジプト新王国時代の王族の墳墓です。

ラムセス2世王妃ネフェルタリの墓は、美しい装飾が施されていることで有名です。

お役立ち情報

こちらでは古代都市テーベとその墓地遺跡観光に役立つ情報や豆知識をお伝えします。

カルナック神殿の光と音のショー

カルナック神殿では毎晩音と光のショーを行っています。

週に1回ですが、日本語で行われる場合もあります。

場合というのは、日本語はロシア語とセットになっていて、当日の観光客の数で決まります。

日本人観光客が多ければ日本語で、ロシア人観光客が多ければロシア語と言うことですね。

ルクソール神殿のライトアップ

実はルクソール神殿は夜になるとライトアップされます。

21時頃までは神殿へも入場できます。

こちらは音によるナレーションやBGMなどは無いのですが、かえってその方が良いという方もいらっしゃいます。

昼間でも壮大なルクソール神殿がライトアップされる姿は非常に美しく、また夜は昼間よりも観光客が少ないためおすすめです。

最後に

いかがでしたか。

これをきっかけに古代都市テーベとその墓地遺跡に興味を持って頂けたなら幸いです。

エジプト文明は非常に古く、日本にまだ文明が無かった頃、すでに数万人単位の町を作り、巨大な建造物を多数建設していました。

新王国時代のエジプトは、王国というよりは帝国に近く、ヌビア、パレスチナ、シリア、メソポタミアと広い領土と多くの民族を直接的、間接的に統治する巨大な国でした。

そんな古代エジプト最盛期の偉大さが感じられるのが古代都市テーベとその墓地遺跡なのです。

エジプトは日本から遠く、度々訪れるのは大変かと思います

しかしそれだけの長旅をするだけの価値があるのがエジプトの世界遺産なのです。

次回のご旅行先がお決まりでないようでしたら、是非エジプトへのご旅行もご検討下さい!