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ウクライナの世界遺産!リヴィウ歴史地区の全貌をご紹介!

 

今回ご紹介するのは世界遺産、ウクライナの「リヴィウ歴史地区」です。

皆さんはリヴィウ歴史地区についてご存じでしょうか。

リヴィウはウクライナの西部、ポーランドとの国境から約70キロメートルの位置にある町の名前です。

人口80万人の大都市ですが、歴史的にはウクライナ語よりもドイツ語のレンベルクやロシア語のリヴォフと呼ばれていた期間が長い為、そちらの方がピンと来る方もいらっしゃるかもしれません。

現在はウクライナ領ですが、歴史的にはポーランド、ロシア、スウェーデン、オーストリア、オスマントルコなどがこの町を巡って争った経緯があり、さまざまな文化が複雑に入り交じっています。

そんなウクライナの世界遺産、リヴィウ歴史地区の魅力について、歴史を踏まえながらご紹介していきたいと思います。

リヴィウの歴史

リヴィウ周辺には5世紀頃から人々が定住していたようですが、まとまった勢力を形成することはなく、10世紀頃までは歴史に登場することもありませんでした。

10世紀の終わり、西暦981年にキエフ大公国のウラジーミル大公によってリヴィウは征服され、キエフ大公国の領土となりました。

しかし、西暦1015年にはポーランド王国のボレスワフ1世がキエフ大公国を攻撃、リヴィウを占領します。

この後のリヴィウは長年に渡りポーランド王国の支配下に入ることになりました。

もっとも、この頃のリヴィウは町ではなく小さな集落で、13世紀前半に、ポーランド王の臣下のハールィチ・ヴォルィーニ大公国のダヌィーロ・ロマーノヴィチによって初めて都市が建設されたのです。

リヴィウという町の名前は、ダヌィーロ・ロマーノヴィチの息子、レヴに因んで名付けられたと言います。

ポーランド王国の文献では、西暦1256年には既にリヴィウの町の存在が記されています。

ポーランド・リトアニア連合王国が成立した直後の西暦1366年にハールィチ・ヴォルィーニ大公国がヤゲウォ朝ポーランド王国に吸収合併された為、リヴィウもまたポーランド王国領となりました。

リヴィウはポーランド・リトアニア連合王国の統治下では黒海交易とバルト海交易の中継地点として貿易によって大きく発展しました。

17世紀初頭の人口は3万人を超えていたそうです。

17世紀に入ると、ポーランドの国力が衰え、リヴィウはコサックの蜂起やスウェーデン王国、オスマントルコ帝国の攻撃を相次いで受けました。

西暦1704年には大北方戦争によってスウェーデン国王カール12世が率いるスウェーデン軍に略奪され、町は破壊されました。

西暦1772年には第1回ポーランド分割が行われ、リヴィウはオーストリア帝国領になります。

オーストリア帝国の統治下では公用語はドイツ語とされ、実権はドイツ人に握られてしまいました。

オーストリア帝国はドイツ文化への同化政策を推進したため、リヴィウの民衆は反発し、西暦1848年には遂に住民が蜂起しました。

一旦はドイツ化を強く進めたオーストリア帝国でしたが、帝国は他民族国家であったため、住民蜂起が長引いて他の地方、民族に飛び火することを恐れたのか、リヴィウでもウクライナ人による大幅な自治権が認められました。

この頃、ウクライナの他の地域はロマノフ朝ロシア帝国による支配で、公用語はロシア語とされ、またウクライナ語は禁止されていたため、リヴィウの獲得した自治権はウクライナ文化を育てるにあたって非常に重要な役割を果たしました。

第一次世界大戦中の西暦1914年にリヴィウはロシア軍に占領されましたが、翌西暦1915年にはオーストリア=ハンガリー帝国軍によって解放されます。

その後、西暦1918年にオーストリア=ハンガリー帝国が解体されると西ウクライナ人民共和国の建国が宣言され、リヴィウは首都とされました。

しかし、ポーランド系住民はそれに反対し、リヴィウ中心部を占拠しました。

ポーランド・ウクライナ戦争は翌西暦1919年まで続きましたが、ポーランド軍の全面的な支援を受けていたポーランド側が勝利し、リヴィウは再びポーランド領となりました。

第二次世界大戦ではナチスドイツ軍によってリヴィウは占領されましたが、ナチスドイツとソ連の密約によってソ連に明け渡されました。

第二次世界大戦後はウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国の領土とされ、ソ連崩壊後もそのままウクライナの領土となっています。

代表的建造物

リノック広場

リノック広場は旧市街の中心部にある広場です。

この広場の名前の「リノック」は市場という意味で、実際にかつては市場が開かれていたそうです。

広場の中央にある建物はリヴィウの市庁舎で、現在でもこの広場はリヴィウの政治的中心地として機能しています。

広場の一角にはネプチューンの噴水があります。

ネプチューンは海の神様なのに何故海の無いリヴィウにあるのかはわかりませんでした。

この噴水の周りにはよく大道芸人が立っています。

変容教会

変容教会はウクライナのローマ=カトリックの教会です。

ウクライナのローマ=カトリック教会は少し変っていて、宗教的儀式や教会は東方正教会のようなイコンを中心としたスタイルなのですが、東方正教会ではなくローマ=カトリック教会傘下の教会なのです。

この変容教会もそういった教会の1つで、外観からはわかりませんが、教会内部はところ狭しとイコンが飾られていて、主祭壇にもカトリック教会につきもののキリスト像はありませんので、知らない人が見れば東方正教会の教会としか思えない雰囲気の教会です。

リヴィウ・ラテン大聖堂

リヴィウ・ラテン大聖堂はリノック広場のネプチューンの噴水からすぐの場所にあるローマ=カトリックの教会です。

こちらはウクライナスタイルの東方正教会とローマ=カトリックが混ざった教会ではなく、オーソドックスなゴシック式の教会で、教会の中には聖人像も数多く飾られています。

この教会が建てられたのは14世紀から15世紀にかけての事で、当時リヴィウはポーランド王国の領土でした。

ポーランドは伝統的に熱心なカトリックの国ですので、リヴィウにもオーソドックススタイルのカトリック教会を建設したのです。

アルメニア教会

リノック広場の少し北側にあるアルメニア教会は、14世紀頃に建設されたアルメニア教の教会です。

アルメニア教にはアルメニア正教とアルメニアカトリック教とありますが、この教会はアルメニア正教会の方ですね。

黒海を挟んで2,000キロメートル以上離れているアルメニアの教会が何故リヴィウにあるのか疑問に思った方もいらっしゃるかもしれません。

アルメニアは12世紀頃にオスマントルコ帝国から攻撃されたため、各地に難民が発生し、一部の難民はリヴィウまで到達していたのです。

ポーランド王国は熱心なカトリック教国だったので、イスラム教を嫌って人々が逃げ込んだのでしょう。

この教会は現在もアルメニア系の人々の為に活動を続けているそうです。

役立つ情報&豆知識

こちらではリヴィウ観光に役立つ情報や豆知識をお伝えします。

ウクライナの埋もれた宝石

リヴィウは国内でも最もウクライナらしい町として知られていて、別名「ウクライナの埋もれた宝石」とも呼ばれています。

首都のキエフや他の町と比べるとロシア風の建築が少ないのが特徴的で、これは既にお伝えしたようにポーランドとオーストリアの影響が大きいのだと思います。

今回お話しした以外にも観光スポットは数多くあり、様々な文化が混ざり合った結果、他では見られない特徴的なものも多くなっています。

マイクロブリュワリー プラブダ

リノック広場の北西角にあるプラブダはリヴィウでは大人気のブリュワリーです。

プラブダはウクライナ産の材料だけでビールを製造していて、このお店は1階がバースペース、2階と3階がダイニングスペースになっていて、夜は毎晩のようにライブが行われます。

プラブダのビールは国際コンクールで金賞を受賞したこともある美味しいビールなのですが、味よりもラベルの方が有名になっています。

時事ネタを採り入れたラベルが貼られたビールもあり、見た目もユニークです。

最後に

いかがでしたか。

これをきっかけにリヴィウ歴史地区に興味を持って頂けたなら幸いです。

ウクライナと聞くとなんだかロシア以上に恐ろしいイメージを持っている方が多いのですが、実際にウクライナの人々と話してみると恐ろしい事は無く、結構フレンドリーに話してくれます。

物価が安いのもウクライナの良いところで、日本で数万円かかりそうなレストランでお腹いっぱい飲み食いしても、5,000円でお釣りが出ます。

また、ウクライナは美女が多い事でも有名ですので、勇気ある男性はバーに繰り出して話しかけてみてはいかがでしょうか。

年配の方にはほとんど英語は通じませんが、若い人は話せる方も多くなってきています。

次回の海外旅行先がまだお決まりでないようでしたら、是非ウクライナのリヴィウもご検討ください!