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ウクライナの世界遺産!ブコヴィナ・ダルマティアの主教座施設へ行ってみよう!

今回ご紹介するのは世界遺産、ウクライナの「ブコヴィナ・ダルマティアの主教座施設」です。

皆さんはブコヴィナ・ダルマティアの主教座施設についてご存じでしょうか。

ブコヴィナ・ダルマティアの主教座施設はウクライナのチェルニィツィという町にある、かつてのブコヴィナ・ダルマティアの府主教が使用していた住宅や教会、修道院とその付属庭園から構成されていて、その中の一部は地元のチェルニィツィ大学の施設として利用されています。

この地方をハプスブルク家のオーストリア帝国が統治していた時代に建設された建物は非常に優雅で、どことなくオーストリアの気風を感じさせられます。

ハプスブルク家はキリスト教内部においては比較的寛容な姿勢をもっており、カトリックだけではなくロシア正教、ギリシャ正教などの東方正教会についてもカトリックと同様に保護していました。

このブコヴィナ・ダルマティアの主教座というのも東方正教会の組織にあたります。

皇帝ヨーゼフ2世はブコヴィナ正教会という新しい組織の立ち上げを進め、ダルマティア主教区と一本化させました。

こうして皇帝の後ろ盾を得ていたためブコヴィナ・ダルマティア主教の館は、周辺でも有数の豪勢な建物となったのです。

そんなブコヴィナ・ダルマティアの主教座施設の魅力について、歴史を踏まえながらご紹介していきたいと思います。

ブコヴィナの歴史

ブコヴィナはウクライナとルーマニアにまたがる地域の名前です。

カルパチア山脈とドニエストル川の間の地域一帯がこれにあたります。

現地の言葉で「ブナの国」という意味を持っているこの地域は、「ヨーロッパに残された最後の秘境」とも呼ばれています。

ブコヴィナの歴史は意外と古く、紀元前2世紀から紀元前3世紀頃にはルーマニアからトラキア人の一派であるダキア人がこの地に移住を開始しました。

その後、300年間はダキア人の王国がブコヴィナを支配していましたが、西暦106年にダキア人の王デケバリウスが古代ローマ帝国との戦いに敗れたため、これ以降は古代ローマ帝国の支配下に入ります。

ローマの国力が低下した3世紀にはゲルマン系民族のゴート人によって侵略されました。

4世紀には中央アジアからやってきたと思われるフン族の侵入を受けます。

このフン族の侵入がもとでヨーロッパではゲルマン民族の大移動がおき、古代ローマ帝国は崩壊しました。

その後6世紀にはやはり中央アジアに起源をもつ遊牧民族のアヴァール人がブコヴィナに侵入します。

この頃にはスラヴ系の民族もこの地域に勢力を広げ始めました。

西暦797年にアヴァール人とフランク王国との戦いがあり、フランク王国のカール大帝の前にアヴァール人は敗北します。

ブコヴィナだけではなく、ワラキア、トランシルヴァニア、ルーマニア、ハンガリーなどの広大な地域を支配していたアヴァール人でしたが、この敗戦をきっかけに勢力は後退しました。

10世紀から15世紀まではスラヴ系の国家の支配下に入りました。

はじめはウクライナに本拠地のあったキエフ大公国、後にはハールィチ・ヴォルィーニ大公国そしてモルダビア公国とめまぐるしく帰属が変わります。

15世紀には新興国で、当時ヨーロッパでも強大な王国だったポーランド王国とモルダビア公国との間でブコヴィナを巡って紛争が勃発します。

この時の争いでは西暦1497年の戦いでモルダビアがポーランドに勝利しました。

16世紀前半にはモルダビア公国はオスマントルコ帝国の傘下に入りました。

オスマントルコ帝国の歴代スルタンは宗教的にも占領地支配の面でも寛容な姿勢をとっていましたので、ブコヴィナもその支配下での自治を許されました。

西暦1768年に始まったロシア帝国とオスマントルコ帝国の戦争(露土戦争)ではロシア帝国によって7年間占領されました。

露土戦争終結後はオーストリア帝国領となります。

世界遺産の建造物もこの時代に建設されました。

20世紀に入るとルーマニア王国の領土となりましたが、その後旧ソヴィエト連邦統治下で北部がウクライナ=ソヴィエト社会主義共和国に編入されました。

この影響でブコヴィナの北部はウクライナ領、南部はルーマニア領に別れたままとなっています。

ブコヴィナ・ダルマティアの主教座施設について

先ほどブコヴィナの歴史でも触れましたが、18世紀中盤の露土戦争の講和条約であるキュチュク・カイナルジ条約によって正式にオスマントルコ帝国からオーストリア帝国に領有権が移りました。

オーストリア帝国の領土となった後、モルドヴァ正教会の府主教の邸宅が当時チェルノヴィッツと呼ばれていたチェルニウツィーに移され、ハプスブルク家の皇帝ヨーゼフ2世の後ろ盾を得てブコヴィナ正教会が設立されました。

当初ブコヴィナ府主教のために建設された邸宅は、オーストリア軍の設営舞台によって建設されました。

西暦1783年に完成したこの邸宅は木造の質が悪い建物だったため、10年と持たずに崩落してしまいました。

この後70年にわたってブゴヴィナ府主教は借家暮らしを強いられていましたが、西暦1852年に行政当局にこの状況について訴え出たため、当局は新しい府主教邸宅の建設を決定します。

この時の建築計画には、府主教の住宅だけではなく客間や文書館、聖楽隊の宿舎や学校、礼拝堂などが含まれていました。

ビザンチン式やムデハル式などの様々な建築様式と取り入れた建物は、オーストリア帝国の威信を示すという目的もあって大規模な建物が設計されました。

西暦1864年に建設に着工しましたが、疫病の流行や政情の不安定などの理由から工事は遅れ、当初の建設責任者だった人物はオーストリアの当局との確執によって罷免となり、後を継いだ二代目の建設責任者、フェリクス・クシエザルスキーの指揮能力の不足から教会聖堂を含む建物の完成は遅れ、ようやく完成したのは着工から約20年後の西暦1883年のことでした。

府主教邸はプルートー川の本流と支流の間にある丘の斜面にあります。

邸宅を含む建物は中庭の三方向をコの字型に囲むように建てられていて、開いた面には正門が置かれています。

この建物の配置はエルサレムを模したものと言われていて、イタリアなどでは16世紀に流行しました。

正門を通って正面の建物が府主教邸です。

この建物は現在では地元大学の近代語学部が使用しています。

建物内部には赤の間、青の間、緑の間などの部屋があり、その中でも赤の間は世界遺産委員会の諮問機関である国際記念物遺跡会議(ICOMOS)でも「まるで赤い絹で飾られた宝石箱のようだ」という発言が記録されています。

お役立ち情報

こちらではブコヴィナ・ダルマティアの主教座施設観光に役立つ情報や豆知識をお伝えします。

ウクライナの代表的料理

ウクライナの代表的料理といえばボルシチなのですが、ボルシチはあまりにも有名なので今回は別の料理をご紹介します。

ワレニキという名前の料理が今回ご紹介する一品です。

外見はまるで水餃子のような料理で、中身にいろいろなものが入っているのも似ています。

オーソドックスなものは肉、チーズ、ジャガイモですが、サクランボが入った甘いものもあります。

ウクライナではどこの町でも売っていますし、ほとんどのレストランでもメニューにあります。

甘いタイプのワレニキも人気でこちらの方が良く食べるという方もいらっしゃるみたいですよ。

最後に

いかがでしたか。

これをきっかけにブコヴィナ・ダルマティアの主教座施設に興味を持って頂けたなら幸いです。

ウクライナというとなかなか接点がないため、どんな国なのか想像がつかないという方が多いのではないかと思います。

ウクライナはヨーロッパでもかなり領土の広い国で、豊かな穀倉地帯としても知られています。

穀物だけではなく、野菜、果物などの食料も豊富でヨーロッパでも屈指の農業国です。

どの季節に訪れてもきっと美味しい料理が味わえるかと思います。