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イタリアの世界遺産!画家ラファエロの生まれたウルビーノ歴史地区とは?

今回ご紹介するのは世界遺産、イタリアの「ウルビーノ歴史地区」です。

皆さんはウルビーノ歴史地区についてご存じでしょうか。

ウルビーノはイタリア東部、夏の保養地として有名なリミニやサンマリノ公国から近い位置にある町の名前です。

この町は中世にはウルビーノ公国の都として栄え、最盛期を迎えた15世紀には芸術と文化の中心的都市としてヨーロッパ中から画家、彫刻家、詩人などの芸術家や自然科学学者、天文学者、神学者、法学者などの学者が数多く集まりました。

ウルビーノの町からも何人もの有名な芸術家や学者が出ていて、その中でも最も有名なのはルネッサンスの四大巨匠とも言われているラファエロです。

16世紀以降は徐々に衰退していき、経済的、政治的にはあまり重要ではない町となってしまいましたが、かつての芸術の都としての側面はそのまま引き継がれています。

そんなウルビーノ歴史地区の魅力について、歴史を踏まえながらご紹介していきたいと思います。

ウルビーノの歴史

ウルビーノの歴史は意外に古く、古代ローマ帝国の時代にまで遡ります。

ローマの時代には全くと言っていいほど文献に登場することはなく、わずかに名前だけが確認できる程度となっています。

ウルウィヌム=マタウレンセ、マタウルス川の傍の小さな町という意味の名前を持つこの町は、5世紀からのローマ帝国崩壊に伴って侵入してきた東ゴート族の王国に編入されました。

西暦538年には東ローマ帝国軍によって東ゴート王国から取り戻され、領土に編入されました。

その後、フランク王国のピピンによってローマ教皇領として献上された中にウルビーノも含まれていたのですが、西暦1200年まではウルビーノの町は教皇権からも独立し、自治都市国家として行動していました。

西暦1200年頃にウルビーノの町はモンテフェルトロ近くを根拠地とするイタリア貴族の領地となりました。

貴族領となったあとも町は一定の自治権を保持していましたが、領主は市民たちに自らをポデスタ(第一市民)に自主的に推薦するように圧力をかけたため、市民からの反感を集めました。

その結果として周辺の自治都市国家と連帯したウルビーノ市民は領主に対して反抗し、西暦1234年には自治権を取り戻したのです。

教皇派と皇帝派の一連での争いでは神聖ローマ皇帝やローマ教皇のどちらかにつくというよりはそれぞれの陣営の有力者や周辺の都市国家と連携を図ることが多かったのがウルビーノの特徴です。

都市国家としては両派の間で明確な旗印を示さなかったウルビーノですがモンテフェルトロの貴族は神聖ローマ皇帝に協力を表明していました。

15世紀末、ローマ教皇アレクサンデル6世の息子のチェザーレ=ボルジアは失われた教皇領の奪還を図ってローマから北方の都市国家を攻撃しました。

この一連の軍事行動の標的の一つにウルビーノも含まれていました。

チェザーレ=ボルジアはまずウルビーノの北東にあるアドリア海に面した都市国家リミニに向かい、リミニはチェザーレ=ボルジアが率いる大軍の前に戦わずして降伏したため、チェザーレ=ボルジアは無傷でリミニを占領しました。

その後同じくローマ教皇から破門されていたファエンツァの町に進路を向け、降伏を拒否したファエンツァを攻撃します。

ファエンツァの町は再三に渡って教皇軍を退けましたが、領主の命の保証と引き換えに降伏を受け入れました。

さらにチェザーレ=ボルジアは軍をフィレンツェに向けて進軍し、国境付近まで攻め込みましたがローマ教皇アレクサンデル6世やフランス国王ルイ12世の仲介があったため軍を引き換えし、西暦1502年にはそれまで傭兵としてチェザーレ軍に従軍していたウルビーノを突如攻撃します。

ウルビーノ公爵のグイドバルドは抵抗を諦めて逃亡したため、ウルビーノの町はチェザーレ=ボルジアの支配下に入りました。

チェザーレ=ボルジアが失脚したあとでグイドバルドはウルビーノに返り咲きましたが、彼には子供がいなかったため外部からの養子、フランチェスコを受け入れて跡を継がせました。

フランチェスコがウルビーノ公爵となるとフィレンツェのメディチ家出身のローマ教皇レオ10世からの攻撃を受け、ロレンツォ=メディチがウルビーノ公爵の位を簒奪します。

しかし西暦1519年にロレンツォが死に、続いて西暦1521年にはレオ10世も死去したためフランチェスコは再びウルビーノ公爵に復帰し、ウルビーノは自治を取り戻しました。

西暦1626年にウルビーノ公爵家は跡継ぎが途絶えてしまい、最後の当主によって公爵領は教皇に寄進されました。

こうして教皇領に組み込まれたウルビーノはウルビーノ大司教の領地となりましたが、西暦1860年にはサルデーニァ王国に併合され、翌西暦1861年からは統一イタリア王国の一部となって現在に至っています。

代表的建造物

パラッツォ・ドゥカーレ(ドゥカーレ宮殿)

15世紀に建設されたこの宮殿は、もともとあったゴシック式の城壁の上に新しくルネッサンス式の軽やかで明るい空間を持った建物を建てた宮殿です。

イタリアの他の都市のこの時代の建物は、その後増改築が行われるなどしてオリジナルの構造が失われていることも多いのですが、ウルビーノは16世紀以降衰退してしまったため増改築を行う余裕がなく、結果として当時の面影が色濃く残されています。

宮殿への入場料は6.5ユーロとなっています。

ラファエロの家

ラファエロの家はラファエロ通りという名前の坂道の途中にあります。

また坂を登るとラファエロの銅像が立っています。

ラファエロの家はもともとは普通の民家ですので見た目は目立ちませんが、家の中にはラファエロの作と言われている聖母子像のフレスコ画が展示されています。

この絵にはラファエロではなく彼の父の作品ではないかという説もあり、もしそれが本当だとすると、描かれている赤ちゃんがラファエロをモデルにしている可能性もあります。

ラファエロの家への入場料は3.5ユーロとなっています。

お役立ち情報

こちらではウルビーノ歴史地区観光に役立つ情報や豆知識をお伝えします。

ウルビーノを見渡せるスポット

ウルビーノは小さな町ですので高い場所に登れば町全体を見渡すことが出来ます。

ルヴォルノーツ要塞があるレジステンツァ公園はそういったスポットの1つで、多くの観光客がここを訪れウルビーノの町のパノラマ風景を楽しんでいきます。

旅行の記念写真の撮影にもぴったりの場所ですので、是非訪れてみてください。

最後に

いかがでしたか。

これをきっかけにウルビーノ歴史地区に興味を持って頂けたなら幸いです。

ドゥカーレ宮殿やラファエロの家以外にもいくつかの観光スポットがあり、サン・ジュゼッペ礼拝堂にあるキリスト生誕の場面を彫刻で表現したプレゼビオという作品は一見の価値があります。

サン・ジュゼッペ礼拝堂とサン・ジョヴァンニ礼拝堂は管理人が共通となっているため、片方しか開いていないことがあるそうですが、その場合には開いている方の礼拝堂を訪れて、もう片方にも入りたい旨を伝えると開いてくれるそうです。

サン・ジョヴァンニ礼拝堂の方が知名度は高いのですが、サン・ジュゼッペ礼拝堂のプレゼビオは見逃すことはできない美しい作品です。

イタリアへのご旅行をお考えでしたら是非ウルビーノにも足をお運びください!