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イタリアの世界遺産!奇跡の広場ピサのドゥオモ広場をクローズアップ!

今回ご紹介するのは世界遺産、イタリアの「ピサのドゥオモ広場」です。

皆さんはピサのドゥオモ広場についてご存じでしょうか。

ピサのドゥオモ広場は別名「奇跡の広場」とも呼ばれている美しい広場です。

この広場にあるピサ大聖堂の鐘楼がかの有名なピサの斜塔で、この塔の上から重い球と軽い球を落として、その落下速度を比較したのがこのピサの斜塔です。

ピサはイタリア都市国家の中でも早くから力のあった町で、ドゥオモ広場にある建造物群はその最盛期に着工されたものです。

そんなイタリアの世界遺産、ピサのドゥオモ広場の魅力について、歴史を踏まえながらご紹介していきたいと思います。

ピサの歴史

ピサの起源は未だに判明しておらず、紀元前5世紀には既に交易都市としてある程度の規模の町が形成されていたと見られています。

北から流れてきたセルキオ川と南から流れてきたアルノー川がリグリア海に注ぐ地点にあるピサは、両河川を利用した水運、リグリア海、ティレニア海の海運の重要拠点であり、早くから貿易港として栄えていました。

紀元前180年に、ピサはローマの植民地ポルトゥス・ピサヌスとなりました。

その後紀元前89年にはムニキピウムと改名されます。

古代ローマ帝国初代皇帝のアウグストゥスによって、コロニア・ユリア・オブエクセンスと改名されたピサは、古代ローマ帝国の重要港としてさらに発展を続けました。

また、古代ローマ帝国がキリスト教を公認した西暦313年以降は司教座が置かれました。

古代ローマ帝国が東西に別れた後、西ローマ帝国は衰退していきましたが、ピサの国力は衰えませんでした。

これは2本の川とリグリア海の交易がもたらす経済的利益と、その地形から来る防衛面での利点によるものです。

ピサは8世紀にはルッカ公国の一部となりました。

西暦930年にはトゥスキア辺境侯領の都となり、オットー1世が神聖ローマ帝国の皇帝になるまでの間その地位にありました。

ルッカ公国の首都はルッカでしたが、ピサは首都ルッカよりも繁栄していました。

西暦800年頃からサラセン人が地中海に勢力を伸ばしてきたため、海洋国家としての性格が強かったピサは海軍力を強化しました。

西暦828年にはピサの海軍艦隊は北アフリカのサラセン人艦隊を蹴散らし、西暦970年にはイタリア半島の南端、カラブリア沖で東ローマ帝国海軍と戦いこれを撃退しました。

ピサは強力な海軍を擁する海洋国家として成長し、イタリアの四大海洋国家の1つとなります。

他の3つの海洋国家がもっと遅い年代に国力がピークに達するのと反して、ピサの国力は11世紀にピークに達しました。

西暦1005年、ピサはイタリアの南端にあるレッジョ・カラブリアを攻撃し、略奪しました。

西暦1017年にはジェノヴァと組んでサルデーニャ島のムスリムを追い出しました。

これによってピサはリグリア海のみならずティレニア海での覇権を確立しましたが、その後ピサがジェノヴァをサルデーニャ島から追い出した事により、ジェノヴァとは敵対関係となりました。

全盛期を迎えたピサは、11世紀前半にシチリア島を支配下に置き、カルタゴのサラセン人を攻撃して略奪しました。

11世紀中頃にはジェノヴァと交戦し、コルシカ島を奪います。

この戦いは断続的に10年以上続き、勝利したピサは西地中海の制海権を握りました。

西暦1092年にはローマ教皇ウルバヌス2世によってコルシカ島とサルデーニャ島の宗主権を認められ、ピサ司教座は大司教座に格上げされました。

ピサは第1回十字軍に100隻以上の大艦隊を派遣します。

第1回十字軍は西暦1099年にエルサレムの占領に成功し、パレスチナにキリスト教国家を建設しました。

ピサからの十字軍を率いていた大司教ダゴベルトはエルサレムの大司教になり、ピサはアンティオキア、トリポリ、アッコンなどに植民地を作りました。

エルサレム、カイロ、アレクサンドリアにも通商拠点を持っていたピサは、当時最重要都市でもあったコンスタンティノープルにおいても免税などの特別な権利を持っていました。

12世紀の始めにはピサと東ローマ帝国は軍事協定を結び、コンスタンティノープルに1000人を超えるピサ人が住んでいました。

12世紀の初めにピサとローマ教皇庁は西地中海沿岸の諸侯を誘い、マジョルカ島とメノルカ島のムーア人の王国を攻撃し、占領、略奪を行いました。

この時期、ピサ海軍は盛んに西地中海を航海し、サラセン人、ムーア人、そしてジェノヴァ人の船団を攻撃しました。

教皇派(ゲルフ)と皇帝派(ギベリン)の争いでは、ピサは一貫して皇帝派に立っていたため、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世によって、ピサ領土での司法権を認められ、また神聖ローマ帝国とその支配下の領域における自由貿易権も認められました。

この特権は歴代の神聖ローマ皇帝によって追認され、ピサに大きな利益をもたらしましたが、周辺のイタリア都市との関係を悪化させる要因にもなりました。

12世紀の後半になるとピサの力に衰えが見え始めます。

ジェノヴァとの長い戦いによって財政が悪化し、ジェノヴァに対する海上での優位性も脅かされ始めました。

西暦1199年頃から西暦1206年まで続いたヴェネツィアとの戦いでは、海戦でヴェネツィア艦隊に敗れ、アドリア海でのヴェネツィアの優位を認める条約を結びました。

ヴェネツィアとピサはともにジェノヴァと敵対関係にあったため、時にはジェノヴァに対して共闘し、時には協力して東方貿易を行ったのです。

13世紀に入ると周辺にある教皇派のイタリア都市との間で争いが起こります。

海上戦では強力な海軍を有するピサでしたが、陸上戦力は劣勢で、ルッカ、フィレンツェを相手に連敗を喫してしまいます。

西暦1238年にはローマ教皇グレゴリウス9世の仲介によって、ジェノヴァとヴェネツィアの間に同盟が成立し、両都市ともに教皇派であったことからピサはジェノヴァとヴェネツィアの間で孤立することになりました。

続く西暦1239年にはローマ教皇グレゴリウス9世によって神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世が破門され、教皇派と皇帝派の争いは頂点に達しました。

西暦1241年にピサ=シチリア連合艦隊がジェノヴァ艦隊に攻撃を仕掛け、護送中のカトリック司教と枢機卿を連行しました。

この戦いが影響でフリードリヒ2世と同様ピサもローマ教皇から破門されてしまいました。

西暦1284年にピサ艦隊はジェノヴァ艦隊に対して大敗し、西地中海の制海権を失いました。

海洋国家であるピサの本格的な衰退はここから始まります。

西暦1290年にはピサの母港であるピッサーノ港が破壊され、周辺の大地では穀物が育たないように塩が撒かれました。

西暦1324年にはイベリア半島のアラゴン王国によって、サルデーニャ島が奪われます。

この事件の後、ピサがかつての勢いを取り戻す事はもはやありませんでした。

代表的建造物

ピサの斜塔

ドゥオモ広場にあるピサの斜塔は町のランドマークタワーにもなっています。

この斜塔はピサ大聖堂の鐘楼で、自重と地盤沈下によって5.5度傾いてしまいました。

21世紀に入ってからの工事によって現在の傾斜は4度以下に抑えられています。

一時期は倒壊の危険性を考慮して立ち入り禁止となっていましたが、現在は最上階まで登る事ができます。

ガリレオの落下速度実権が行われたのもこのピサの斜塔です。

ピサ大聖堂

ドゥオモ広場にあるロマネスク式の大聖堂がピサ大聖堂です。

こ平面十字架型の大聖堂を中心として、ドゥオモ広場の建造物群がまるで1つの建築物であるかのような統一された外見をしていることから、ドゥオモ広場を別名「奇跡の広場」とも呼んでいます。

ピサ大聖堂は11世紀に司教座聖堂から大司教座聖堂に格上げされ、現在でもカトリックの大司教座が置かれています。

サン・ジョヴァンニ洗礼堂

ピサ大聖堂の西側にある丸い建物はサン・ジョヴァンニ洗礼堂です。

西暦1152年に建設が開始されたこの洗礼堂は、完成までに200年以上の年月を必要としました。

長い年月をかけて建設された影響なのかこの礼拝堂は下部がロマネスク式、上部がゴシック式となっているユニークな外観となっています。

また、屋根の4割程度が未完成のように見えるのは、財政悪化による建築費用の不足からこのような状態となったと言われています。

お役立ち情報

こちらではピサ観光に役立つ情報や豆知識をお伝えします。

ピサ名物のブランド牛

実はピサには日本のブランド和牛のようなピサブランドの牛がいます。

その牛の名前はムッコ・ピサーノといって、わずか500頭程度しか飼育されていません。

ムッコ・ピサーノは18世紀に4種類の牛を交配させる事で生み出されたブランド牛で、特上の赤身肉の美味しさで有名です。

日本の和牛と違い、霜降り肉ではありませんがヨーロッパの人々は霜降り肉よりもこのような低脂肪の赤身肉を好むのだそうです。

ピサの斜塔のギネス記録について

ピサの斜塔は長い間世界で一番傾いている建物とされていましたが、西暦2009年版のギネスブックでその座をズールフーゼンの斜塔に奪われました。

その後西暦2010年にはアラブ首長国連邦のキャピタルゲートビルが世界一傾いている建物として認定されました。

ピサの斜塔は倒壊防止のための安定化工事で傾斜角が5.5度から3.99度となった事でズールフーゼンの斜塔にその座を奪われました。

2つの斜塔が地盤沈下や自重の影響によって傾いている一方、キャピタルゲートビルは2つの斜塔とは異なり、意図的に傾けられたその斜角は18度に達しています。

最後に

いかがでしたか。

これをきっかけにピサのドゥオモ広場に興味を持って頂けたなら幸いです。

小国家が乱立していたイタリア都市国家の中でも、ピサは有力な都市国家として有名でした。

力を持ったのが早い分、衰退も早く、ヴェネツィアやフィレンツェ、ジェノヴァといった強力な国家が最盛期を迎える頃には既にピサは衰え、やがてフィレンツェに吸収されてしまったことで、日本ではピサの斜塔以外の知名度が極端に低くなっています。

しかし、ピサ市内には世界遺産となっているドゥオモ広場以外にも見どころのある観光スポットが多数あり、多くの観光客が訪れています。

フィレンツェからも近く、歴史的にも密接な関わり合いがありますので、フィレンツェとセットで訪れる方も多くなっています。

イタリアを訪れる際には是非ピサにも足をお運び下さい!