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イタリアの世界遺産!ポンペイ、エルコラーノ及びトッレ・アヌンツィアータの遺跡地域とは?

今回ご紹介するのは世界遺産、イタリアの「ポンペイ、エルコラーノ及びトッレ・アヌンツィアータの遺跡地域」です。

皆さんはポンペイ、エルコラーノ及びトッレ・アヌンツィアータの遺跡地域についてご存じでしょうか。

ポンペイ、エルコラーノ及びトッレ・アヌンツィアータの遺跡地域は西暦79年のベスヴィオ山の噴火によって一晩の内に埋没してしまった古代ローマの遺跡群です。

この時の火山噴火では、有名なポンペイの他、ヘルクラネゥム、スタヴィアエ、オプロンティースなどの町が1日にして火山灰と火砕流によって地中に埋没してしまったのです。

特に火砕流は時速100キロメートルを超える高速で町に迫ったと言われていて、発掘現場からは当時の市民の生活や、逃げ遅れた人々が生き埋めになった部分がそこだけ空洞になっている箇所などが発見されています。

そんなポンペイ、エルコラーノ及びトッレ・アヌンツィアータの遺跡地域の魅力について、歴史を踏まえながらご紹介していきたいと思います。

ポンペイとその周辺の歴史

ポンペイはイタリア南部のナポリの少し南にあります。

アマルフィ、サレルノとナポリの間のポンペイは、非常に早い段階からオスキ人と呼ばれる人々が定住していたことがわかっています。

紀元前7世紀頃には既にサルノー川の河口から近い場所に集落が形成されていました。

紀元前6世紀の後半には北部イタリアからやってきたイタリア原住民族の1つ、エトルリア人との戦いに敗れてしまいましたが、オスキ人はこの頃シチリアやイタリア南部の植民地に住んでいたギリシャ人と手を組み、紀元前5世紀の前半にはクムエの海戦で領土を取り返しました。

この戦いの後、ギリシャ人は現在のナポリにネアポリスという新しい植民地を建設しました。

その後、紀元前5世紀の終りには、サムニュウム人によってポンペイは征服されました。

サムニュウム人はポンペイやナポリを含む、現在のカンパニヤ一帯に影響をおよぼしたと伝わっています。

ポンペイとナポリの間にあったヘラクレネウム(現在のエルコラーノ)はその名前からもわかるように、ギリシャの英雄ヘラクレスを守護神として建設された植民市です。

もともとサムニュウム人の一部族によって小さな集落があった場所に目を付けたギリシャ人が集落を征服し、ナポリ湾の交易基地として利用しました。

紀元前1世紀にカンパニヤの都市国家群は古代共和制ローマに対して戦争を起こしました。

同盟市戦争と呼ばれているこの戦争は、紀元前89年にはローマの将軍、ルシウス・コーネリウス・スラによって平定され、ポンペイを含むカンパニヤの都市国家群はローマの支配下に入りました。

ポンペイは地中海の海運路とアッピア街道を主体とした陸運路を結ぶ重要な中継地点として発展していきました。

ベスヴィオ火山の噴火について

ベスヴィオ火山は1世紀に入ってから活動が活性化していました。

西暦62年の初めにはベスヴィオ火山の活動によるものと思われる大規模な地震が発生し、ポンペイと周辺の多くの町は被害を受けました。

この地震から完全に立ち直っていない西暦79年、8月24日の昼過ぎにベスヴィオ火山が大爆発を起こし、辺り一帯には一晩中噴火による火山灰の降下が起こりました。

翌日、8月25日には大規模な火砕流が発生し、時速100キロメートルを超えるスピードでポンペイ市街に襲い掛かりました。

科学の発達していない時代、町に残っていた市民は逃げる術もなく、一瞬で火砕流の中に飲み込まれてしまいました。

ローマの軍人、ガエウス・プリニウス・セクンドスは被災地のカンパニヤ市民救出のために軍船でポンペイに向かいましたが、煙に巻かれて死亡したと知られています。

この時、彼が吸った煙は有毒性の火山ガスで二酸化硫黄だったのではないかと言われています。

これについては一酸化炭素ではないかという説もありますが、いずれにしても当時の人々には化学的知識がないため、推測するしかありません。

この船にはガエウス・プリニウス・セクンドスの甥ガイウス・プリニウス・カエシリウス・セクンドス(小プリニウス)も乗船しており、彼がタキトゥスに出した手紙の中に当時の様子が詳しく記載されています。

噴火前の地震と、轟音、噴火後の火山灰と火砕流の発生、そして津波についても詳細に記載されていて、これを読むことで噴火発生時の様子がよくわかるようになっています。

ベスヴィオ火山の火口からは激しい火砕流が発生し、同時に火山灰も町に降り注いでいたと記され、ガエウス・プリニウス・セクンドス(大プリニウス)が絶命したときの状況も詳しく記されています。

出土品について

この時火砕流で埋まってしまった跡地には近代まで町が作られることはありませんでしたが、小プリニウスによって詳細な記録が残されていたことや、古代の遺品が発見されることもあったため、地中に町が埋没していることは周知の事実でした。

西暦1738年にエルコラーノでヘラクレネウムが発見され、その10年後にはポンペイが発見されました。

実は16世紀の終りにはドミニコ=フォンターナーという人物によってポンペイの遺跡が発見されていたのですが、その当時は大規模な発掘は行われませんでした。

西暦1738年のヘラクレネウム発見をきっかけに、ポンペイにも本格的に発掘調査の手が入り、西暦1760年に、フランシスコ=ラ=ヴェーガが発掘を指揮するようになると、組織的な発掘作業を導入し、複数の劇場やイシス神殿なども発見されました。

18世紀前半からのこの発掘作業では、非常に多くの品が出土し、古代ローマの文化や生活水準、風習などを知るのに非常に重要な役割を果たしました。

特にポンペイ遺跡からは数多くの絵画が発掘されたことで知られています。

ポンペイの町を一瞬で埋め尽くした火砕流と火山灰には、水分を吸収する性質を持った物質が多く含まれていたことと、町が埋没するスピードが余りにも早く、大規模だったため、その後何百年もの間、遺跡や遺物の劣化を防いでいたのです。

ポンペイから出土した絵画の中で最も有名なものはパン屋の夫婦という名前の、男性と女性が描かれた肖像画ですが、この他にもポンペイのナルキッソスと呼ばれている絵画や、ディオニソスの秘儀の様子が描かれた絵や、アレクサンドロス大王とダレイオス3世の戦いが描かれた壁画などが出土しています。

この時代のローマはまだキリスト教かが進んでいなかったため、宗教の枠にとらわれない様々な絵画やモザイク画が出土し、当時のローマ美術を知るうえでの重要な資料となりました。

ディオニソスの秘儀が描かれた壁画が出土した建物は、現在では「秘儀荘」と呼ばれています。

この建物は西暦1910年に発見され、西暦1929年から西暦1930年にかけて行われた調査によって全貌が明らかになりました。

ディオニソス教は当時この地方で流行していた宗教で、官能的な側面を持っていたため、ポンペイでは特に流行していました。

ディオニソスの秘儀が描かれた壁画からは、儀礼所の朗読、供犠の提供、むち打ちの処罰などを読み取ることが出来ます。

火砕流が町に一気に押し寄せた時、逃げ遅れた人々もあっという間に生き埋めになってしまいました。

その後、遺体は長い年月が経つにつれて分解されてなくなってしまいましたが、遺体の埋まっていた空洞を型にして、石膏を流し込むことで古代の人々が死亡したときの様子を再現しました。

この再現した石膏像からは、抱き合って倒れているカップルや子供を抱いた母親などの様子を知ることが出来ます。

建物の中に逃げ込んで、そこで死んでしまった人々などの石膏像の中には、明らかに生き埋めへの恐怖と苦悶の表情を浮かべているものもあり、逃げ遅れた人々が恐慌状態にあったことがよくわかります。

また、町が一気に埋没したため、当時の食事や様々な商店、公共施設やその他の建造物、日用品などもそのままの状態で地中に保存されていて、古代ローマの詳しい生活環境などはこの遺跡群の発掘がなければわからなかったことも多いと言われています。

長い年月、火砕流と火山灰という天然の保護材に守られてきたポンペイの町ですが、発掘をきっかけに老朽化が始まり、中には崩落してしまう建物が現れ始めています。

古代共和制ローマの実情を知る貴重な資料ですので、その歴史的、文化的価値からも一刻も早い修復、保全の対応が強く望まれています。

お役立ち情報

こちらではポンペイ観光に役立つ情報や豆知識をお伝えします。

ポンペイについて

ポンペイとその周辺の町は1日で火砕流に飲み込まれたため、完全な古代ローマの町並みが残っている唯一の例となっています。

もちろん、ローマ文化について前知識がなくても遺跡や出土品を楽しむことはできますが、やはり少しでも知識があった方がより楽しめるかと思います。

ポンペイ自体の治安はそこまで悪くはありませんが、イタリア南部は北部と比較するとちょっと治安が良くありません。

ポンペイは自由に見て回れますが、特に女性は複数人で行動した方が良いと思います。

レストラン Add’u Mimi

Add’u Mimiは地元の人々にも人気のレストランで、日本からの遺跡発掘調査隊でも人気があったことで知られています。

1品のお値段もかなりリーズナブルになっていて、本格的なイタリア料理を楽しむことが出来ます。

海に面したポンペイならではのシーフードが人気のお店で、イタリアの人気観光地ですので、レストランでは英語も通じます。

住所はVia Roma 61, 80045 Pompeii, Italyです。

ポンペイ大聖堂から西に2ブロックほど進んだ場所になります。

ちょうど大聖堂と遺跡の中間くらいの位置にあり、多くの観光客が訪れるレストランです。

最後に

いかがでしたか。

これをきっかけにポンペイ、エルコラーノ及びトッレ・アヌンツィアータの遺跡地域に興味を持って頂けたなら幸いです。

ポンペイはナポリやシチリアから非常に近いため、そちらと組み合わせて訪れる方が大変多くなっています。

どの町も大変見どころが多い観光スポットですので、日程は余裕をもって組むのがいいでしょう。

イタリアにお越しの際には、是非ポンペイご訪問もご検討下さい!