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イタリアの世界遺産!トスカナ地方のメディチ家の別荘と庭園群を徹底解説!

 

今回ご紹介するのは世界遺産、イタリアの「トスカナ地方のメディチ家の別荘と庭園群」です。

皆さんはトスカナ地方のメディチ家の別荘と庭園群についてご存じでしょうか。

メディチ家の別荘と庭園群はメディチ家の本拠地があったイタリアのフィレンツェ周辺にある12の邸宅と2つの庭園から構成されている世界遺産です。

メディチ家はフィレンツェ出身の銀行家で、ルネッサンス期には多数の芸術家に援助を行い、フィレンツェは芸術と文化の都となりました。

そんなイタリアの世界遺産、トスカナ地方のメディチ家の別荘と庭園群の魅力について、歴史を踏まえながらご紹介していきたいと思います。

トスカナ地方とメディチ家の歴史

フィレンツェは元々古代にエトルリア人が作った集落が始まりと言われています。

現在の町の起源は、紀元前59年に古代共和制ローマのカエサルによって植民都市が作られた事によっています。

その後は神聖ローマ帝国支配下のトスカナ辺境伯爵領が置かれるなどしましたが、有名となったのは中世以降のルネッサンス期に、共和制のもとでメディチ家によって支配された時代です。

メディチ家の出自は実はよくわかっていません。

家名の「メディチ」とは英語でいう「medicine」で、医学や医薬品を表す言葉です。

ここからメディチ家の祖先も医者か薬局だったのではないかと言われています。

メディチ家の紋章の赤い5つの玉も丸薬を示していると見られています。

ただこれには異説もあって、丸薬ではなく、両替商が用いる秤の分銅ではないかとも言われています。

確かなことは、代々のメディチ家に多かった「コジモ」という名前が、医者と薬剤師の守護聖人でもある「聖コスマス」に由来しているということです。

メディチ家の名前が初めて文献に登場するのは13世紀の事で、フィレンツェ共和国の評議会議事録に記録が残っています。

銀行業で成功し、ヨーロッパでも有数の大富豪となったメディチ家は14世紀に入るとフィレンツェ共和国の中枢に一族を送り込むようになります。

この頃、メディチ一族のヴィエーリ・ディ・カンビオの下で当主ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチは銀行業で成功し、ローマ教皇庁との繋がりを深め、勢力を伸ばしました。

ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチはヴィエーリ・ディ・カンビオが亡くなると、ローマに残した銀行をフィレンツェに移転させました。

これがメディチ銀行の始まりです。

ローマ教皇庁の会計管理人となったメディチ家は教会大分裂(大シスマ)の時代に対立教皇であるヨハネス23世を即位させるなど、かなりの影響力を持っていました。

メディチ銀行の支店網もローマやヴェネツィアなどの各都市に作られ、毛織物産業を中心とする製造業と、銀行業によってフィレンツェには莫大な利益がもたらされ、西暦1406年にはピサを支配下に置きました。

ピサは古くから発展していたイタリア中部の港町で、ピサを中心とした海上交易も盛んに行われ、やはり大きな利益をあげました。

大きな権力を持っていたメディチ家でしたが、西暦1433年にはコジモ・デ・メディチが貴族派によってフィレンツェから追放されます。

コジモは翌年にフィレンツェに戻り、労働者と手を結んで敵対した貴族派を逆に追放します。

ここからメディチ家は一市民であるにも関わらず、実質的にはフィレンツェの君主として君臨することになります。

コジモの孫にあたるロレンツォは「ロレンツォ・イル・マニーフィコ」(偉大なるロレンツォ)とも呼ばれ、フィレンツェの黄金時代を作り出しました。

正確にはコジモとロレンツォの間にピエロ・イル・ゴットーゾ(通風持ちのピエロ)と呼ばれるピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチの代から芸術家への援助を大々的に行っており、ボッティチェリやミケランジェロ、ドナテロなどの有名な芸術家がフィレンツェに集まるようになります。

ロレンツォの時代には、フィレンツェ市民にも気前よく振る舞ったためメディチ家の財政事情は悪化し、メディチ銀行も倒産寸前の状態でした。

ロレンツォが亡くなると、再びメディチ家はフィレンツェを追放されます。

この追放は前回とは違い、長期化しました。

ロレンツォの長男、ピエロ・ロ・スフォルトゥナート(不運なピエロ)は追放中に死亡し、当主は弟のジョヴァンニが継ぎます。

西暦1512年にハプスブルク家の後ろ盾を得てフィレンツェに戻ったジョヴァンニは、フィレンツェを掌握すると翌西暦1513年にはローマ教皇レオ10世となりました。

レオ10世はサン・ピエトロ大聖堂改修のために免罪符を販売したことで宗教改革運動が起こるきっかけを作った教皇です。

レオ10世に続いて、クレメンス7世もメディチ家の出身でした。

クレメンス7世によってメディチ家はフィレンツェ公とされ、ついに一市民ではなく正式な君主となったのでした。

世界遺産の邸宅や庭園はこの14世紀から15世紀にかけて作られています。

西暦1569年からはトスカナ大公を名乗り、フィレンツェを統治したメディチ家でしたが、この頃になるとイタリアの国力そのものが衰え、ヨーロッパの中心はフランスやスペインに移りつつありました。

西暦1737年にメディチ家が断絶するとトスカナ大公国は後に神聖ローマ帝国皇帝となるフランツ・ステファンに継承されました。

代表的建造物

12の邸宅と2つの庭園から2つずつをご紹介します。

ヴィッラ・メディチェア・ディ・カステッロ

ヴィッラ・メディチェア・ディ・カステッロは西暦1477年にメディチ家のピエールフランチェスコとロレンツォが購入した邸宅です。

メディチ家の邸宅の中で最も古いこの邸宅は、コジモ1世の時代に造園された庭園が有名です。

コジモ1世は聖書に書かれているようなエデンの園を再現したかったと言われており、世界中の花が咲き乱れる豪華な庭園が造園されました。

かの有名なボッティチェリの名画、「春」や「ヴィーナス誕生」もこの邸宅に飾られていました。

ヴィッラ・メディチェア・ラ・ペトライア

フィレンツェの中心部から北西約6キロメートルの場所にあるこの庭園は、もともと中世に要塞として建設された邸宅です。

メディチ家がこの邸宅を購入したのは西暦1544年の事で、フェルディナンド1世の時代に大規模な増改築を行い、現在の姿となりました。

この邸宅の中庭にはメディチ家の人々を描いたフレスコ画「メディチ一族の栄華」が飾られており、巨大なシャンデリアとともに訪れる人の目を奪います。

ボーボリ庭園

ピッティ宮殿の裏にあるボーボリ庭園は、円形劇場、ネプチューンの噴水、ブオンタレンティの洞窟などがあり、まるで美術館のようになっています。

この庭園は、コジモ1世が妃エレオノーラ・ディ・トレドのために西暦1550年に造園しました。

当時最新のデザインで造園されたボーボリ庭園は、その後のヨーロッパの庭園に大きな影響を与えることになります。

イタリアだけでなく、ヨーロッパ各地の庭園のモデルとなったとも言われています。

プラトリーノ庭園

この庭園は西暦1568年にフランチェスコ1世によって造園されました。

15年もの長い時間をかけて作られた庭園は、当時のヨーロッパでは最大の広さの庭園でした。

この庭園にはアベニンの巨人像という高さ10メートルにも及ぶ像があります。

実はこの巨人像は建物で、像の内部は3階建てになっているそうです。

巨人の目の部分はのぞき窓になっていて、中から外の様子を覗うこともできるようになっています。

お役立ち情報

こちらではトスカナ地方観光に役立つ情報や豆知識をお伝えします。

トスカナ地方はイタリアを代表するワインの産地でもあります。

紀元前からブドウが栽培されていた記録もあり、白ワイン、赤ワインともに評価の高いワインが作られています。

日本ではワインというとちょっと気取ったイメージもありますが、イタリアではワインが最も一般的なお酒で、価格も日本では考えられないくらい安くなっています。

もちろん、超高級品と言われるようなボトルはイタリアでもやっぱり超高額なのですが、庶民でも気軽に買えるような値段のボトルでも素晴らしいワインがたくさんあります。

日本へのお土産や、現地で楽しむために1本ご購入されてはいかがでしょうか。

最後に

いかがでしたか。

これをきっかけにトスカナ地方のメディチ家の別荘と庭園群に興味を持って頂けたなら幸いです。

メディチ家の歴史はそのままフィレンツェの歴史と言っても過言ではなく、またヨーロッパ有数の大富豪でもあったため、その名前を聞いたことのある方は多いかもしれません。

芸術家の保護、援助以外にも様々な政治闘争を行っていたメディチ家を題材としている小説や漫画も数多くありますし、世界史の教科書にも載っているほどの有名な一族でもあります。

ローマ教皇やフランス王妃を多数輩出するほどの栄華を誇ったメディチ家が、その財力を誇るかのように建設、改築を行った宮殿群はまさに美しいの一言につきます。

フィレンツェ中心部からは少し離れた場所ではありますが、遠出する価値は十分にありますので、フィレンツェに起こしの際は、是非メディチ家の別荘と庭園群にも足をお運び下さい!