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がっかり世界遺産なんて言わせない!イランの世界遺産ペルセポリスとは?

 

今回ご紹介するのは世界遺産、イランの「ペルセポリス」です。

皆さんはペルセポリスについてご存じでしょうか。

ペルセポリスは古代のギリシャ都市国家群やアレクサンドロス大王と戦ったアケメネス朝ペルシャの都です。

ペルセポリスというのはギリシャ風の名前で、「ペルシャの都」という意味があります。

ペルシャ語ではタフテ・ジャムシードと言うそうです。

こちらの意味は「ジャムシードの玉座」で、ジャムシードは古代ペルシャで広く信仰されていたゾロアスター教の神話に出てくる王の名前です。

そんなペルセポリスの魅力について、歴史を踏まえながらご紹介していきたいと思います。

アケメネス朝ペルシャ

アケメネス朝ペルシャの歴史は紀元前550年にメディア人とペルシャ人の混血児であるアンシャン王キュロス2世がメディアの将軍ハルパゴスと手を組んでメディアを滅ぼした時に始まります。

メディアは現在のイランにあった大国で、ペルシャ族は当初メディアに服属していました。

大国メディアを倒したキュロス2世はアケメネス朝ペルシャ帝国の建国を宣言し、メソポタミアにあった新バビロニア王国や、アナトリア半島にあった、世界で最初に硬貨を発明した事でも知られているリディア王国を滅ぼしてオリエント最大の大帝国を築き上げます。

ギリシャ人の歴史学者ヘロドトスが記した「歴史」によると、アケメネス朝ペルシャ帝国の始祖、キュロス2世はカスピ海東海岸に住むマッサケタイ族との戦いで戦死したと伝わっていますが、アルゲアス朝マケドニア王国のアレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)がペルシャを征服した時に、パサルカダエにあるキュロス2世の遺体が確認されており、その記録によると遺体の外傷については記載されていないため、ヘロドトスの記述に誤りがある可能性も指摘されています。

紀元前525年にはアフリカ大陸に攻め込んで、エジプト王国を併合しました。

これ以降、アケメネス朝の代々の王はエジプトのファラオを継承することになります。

エジプト併合によってオリエント世界を統一したアケメネス朝ペルシャでしたが、のエチオピア帝国への攻撃は失敗に終わりました。

ヘロドトスの著書「歴史」によれば、ペルシャ人の支配階級は広い統治形態について話し合い、寡頭政治は国を分裂させる危険があり、民主制は衆愚政治に繋がり、人気取りによって政権を簒奪しようとする僭主が台頭する危険性があることから選ばれた君主による君主制を選択したと伝わっています。

しかしこの記述については、ギリシャ人だったヘロドトスが過去のギリシャのポリスで起こった政治的欠陥などを踏まえて記述したとも言われており、実際にアケメネス朝ペルシャ帝国の重臣がこのような話し合いを持ったかどうかは疑問視されています。

一方で、選ばれた君主による君主制というのは、ダレイオス1世が王位を簒奪するための大義名分として流布したのではないかという見方もあり、一概に真実ではないとは言い切れない状況となっています。

この疑惑の王、ダレイオス1世の時代に世界遺産、ペルセポリスの建設が開始されました。

地方徴税官でもある、サトラップに担当地区を統治させ、「王の目」、「王の耳」と呼ばれる直属の官僚にその動きを見張らせました。

ダレイオス1世は各地に遠征を行い、パンジャーブ地方、シンド地方及びその他のインドの一部を勢力下に起きました。

インド徴税区は他の徴税区全てを併せたよりも多くの税金を納め、アケメネス朝ペルシャ帝国にとって重要な地区となりました。

アナトリア半島のイオニア地方で発生した反乱も武力で鎮圧し、ダーダネルス海峡を越えてヨーロッパ側へも版図を広げました。

トラキア、マケドニアを版図に収めたダレイオス1世は、ギリシャ全土を征服しようと企み、ペルシャ戦争を起こします。

しかし、紀元前490年に送り込んだ遠征軍はマラトンの戦いでアテナイ・プラタイアの連合軍に敗れてしまいます。

ちょうどこの頃エジプトでもアケメネス朝に対する反乱が起こったため、ダレイオス1世はギリシャとエジプトのどちらに遠征軍を送るべきか迷ったそうですが、紀元前486年にダレイオス1世は死去し、息子のクセルクセス1世に帝国が継承されました。

クセルクセス1世は父王ダレイオス1世のギリシャ征服戦争を引き継ぎ、紀元前480年に自ら大軍を率いて親征し、テルモピレーの戦いでスパルタ軍を破ったものの、海上ではサラミスの戦いで敗れ、陸上ではプラタイアの戦いで敗れました。

テルモピレーの戦いは近年ハリウッドで映画化されてもいますので、知っている方も多いかもしれません。※300という作品です。

もともとクセルクセス1世は戦争をあまり好まない性格だったらしく、即位直後のエジプト反乱、バビロン反乱の鎮圧も渋り、重臣に促されてやむなく鎮圧したという伝説も残っています。

ペルシャ戦争でもその性格は遺憾なく発揮され、サラミスの海戦で敗れるとクセルクセス1世は戦意を失い、バビロン反乱の鎮圧を名目に帰国してしまいました。

後に残されたペルシャの将軍マルドニオスはアテナイを攻略して破壊と略奪を行い、一旦テーバイまで後退するとギリシャ連合軍とプラタイアで決戦を行います。

この決戦はギリシャ連合軍が勝利し、ペルシャの指揮官マルドニオスは戦死しました。

その後紀元前449年にはギリシャとアケメネス朝ペルシャの間で講和条約が結ばれ、戦争は終結しました。

アケメネス朝ペルシャは約220年続きましたが、紀元前330年にアルゲアス朝マケドニア王国のアレクサンドロス3世がガウガメラの戦いでダレイオス3世を破り、敗走したダレイオス3世はサトラップの反乱軍によって討ち取られました。

こうしてオリエント世界を統一した巨大国家アケメネス朝ペルシャは滅亡したのでした。

ペルセポリス

ペルセポリスは紀元前520年にダレイオス1世が建設を開始した都で、当初はペルシャ帝国の中心地として建設されたと伝わっています。

伝承によるとアケメネス朝の王は春の3ヶ月間をスサ、夏の2ヶ月間を離宮エクバターナ、冬の7ヶ月間はバビロンで過ごしたと伝わっているため、ペルセポリスはもっぱら儀式を行うための都だったのではないかという見方もあります。

しかし、建設当初はここで重要な決定が行われていたことが宮殿跡から見つかった出土品によって確認されており、はっきりとした事はまだ分からない状況となっています。

確かなことはアケメネス朝が滅亡するまでの間、ギリシャ世界では一貫してペルセポリスがアケメネス朝ペルシャの都であると見られていたことと、ペルセポリスを占領したアレクサンドロス大王が手に入れた黄金の物量が、12万タランとという莫大な量だったということです。

これは同じく政治の中心地とみられているスサを陥落させた時の3倍以上の量に当たります。

このことからも、儀式上の都だったにしても、帝国政治の中心都市だったにしても、どちらにしてもペルセポリスは重要度の高い町であったことは疑いようがありません。

アレクサンドロス大王が立ち去る際に宮殿に火を放ってしまったため、現在のペルセポリスは廃墟と化していますが、その姿からでも当時いかにペルセポリスが巨大な宮殿だったかということは容易に想像ができます。

お役立ち情報

こちらではペルセポリス観光に役立つ情報や豆知識をお伝えします。

クセルクセス門

人の顔、鳥の翼、そしてライオンの体を持った二体の巨大な石像が特徴の門はクセルクセス門です。

この門の正式名称は「万国の門」と言われ、各地からの貢ぎ物の使者達が通るため、このような名前が付けられていました。

グリフォン像

万国の門からまっすぐに続く道を直進すると見えてくるのがグリフォン像です。

グリフォンはペルシャ語ではホマと言い、幸運と力の象徴でもあるそうです。

謁見の間(アパダーナ)

アケメネ朝の王の戴冠式などの儀式が行われたとも言われているのが謁見の間です。

この建物は3600㎡もの巨大な大広間で、何本もの巨大な円柱で支えられた壮麗な建物が建っていたと伝わっています。

この謁見の間の東階段にあるレリーフには、各地から訪れる貢献の使者の様子が描かれていて、当時の服装や貢ぎ物の内容などを見ただけでどこからの使者なのかがわかるほど詳細に描かれています。

この他にも巨大なペルセポリスには多くの遺跡が残されています。

最後に

いかがでしたか。

これをきっかけにペルセポリスに興味を持って頂けたなら幸いです。

ペルセポリスは中学、高校の世界史の教科書などでも記載されているため、多くの人が名前を知っている世界遺産ですが、実際にどのような場所なのかというのを知っている方は少ないです。

アレクサンドロス大王が火を放ったことによって、当時の姿を残す部分は少なくなってしまっていますが、逆にそれが良いという方もいらっしゃいます。

ペルセポリスは、たとえ歴史を知らなかったとしてもその偉大さが十分伝わってくる巨大な遺跡ですが、やはり歴史のエピソードを知っている方が楽しめると思います。

もしペルセポリスを訪れるのでしたら、アケメネス朝やアレクサンドロス大王について予備知識を入れてからの方が良いでしょう。