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〜フランスの世界遺産〜パリのセーヌ河岸をぶらり旅!

今回ご紹介するのは世界遺産、フランスの「パリのセーヌ河岸」です。

皆さんはパリのセーヌ河岸についてご存じでしょうか。

セーヌ河はフランスを流れる河川で、流域全体がフランス国内にあります。

フランス最大の河川はロワール川という川で、セーヌ川はフランスで2番目に大きい川です。

パリ市内を流れるセーヌ川はかつて大都市パリの上下水道として利用されていたため、たびたび疫病が発生し、フランス皇帝ナポレオン1世によって近代的な上水道が完備されるまではパリの社会問題の1つとなっていました。

パリはもともとセーヌ川の中州であるシテ島にあった集落が川向こうに広がる形で町がつくられていきました。

いわばパリの母とも言えるのがこのセーヌ川なのです。

近代以降は多くの芸術家や文学者などの文化人が集まったことでも有名なセーヌ河岸は現在では人気の観光スポットの1つとなっています。

そんなパリのセーヌ河岸の魅力について、歴史を踏まえながらご紹介していきたいと思います。

パリの歴史

パリはフランス共和国の首都で、ヨーロッパでも有数の大都市です。

パリ市内の人口は225万人、近郊を合わせたパリ都市圏では1230万人が住んでいます。

都市単位での経済規模でもニューヨーク、ロンドン、東京に次ぐ世界4位の大都市となっており、世界的な大企業の本社も数多く置かれています。

世界の大企業上位500社に限定すれば他の3都市よりも多く、パリが世界一となります。

もともと現在のパリ周辺にはケルト系の先住民が住んでいました。

アルプス山脈を越えてガリア(現在のフランス)に進出してきた古代ローマ帝国の人々は、パリ周辺のケルト系民族のことをパリシイ族と呼んでいました。

パリの名前はこのパリシイ族に由来しています。

パリシイ族はセーヌ川の中州にルテティアという集落を作り定住していましたが、ローマ帝国によって征服され、ルテティアはパリと呼ばれるようになりました。

5世紀にフランク族のクロービスによってパリは占領されます。

6世紀初頭にはメロビング朝フランク王国の首都となりましたが、フランク族は兄弟で分割相続をする習慣を持っていましたので、代替わりをすると国家が縮小し、分裂していったため、パリがフランスの都として栄えるのはまだ後の話となります。

西暦987年にはパリ伯爵ユーグ・カペーがフランス国王に戴冠し、パリはフランスの都となりました。

この後は一貫してフランス王国の都であり続け、町は順調に発展を遂げていきます。

14世紀初頭にはパリの人口は20万人を越え、当時のヨーロッパで最大の町となりました。

西暦1337年に始まった百年戦争ではパリにも大きな被害が出ました。

開戦前に20万人いたパリの人口も西暦1453年に戦争が終結したときには二分の一の10万人にまで減ってしまいました。

ユグノー戦争と呼ばれる新教徒と旧教徒の宗教的対立の時代を経て、西暦1594年にアンリ4世が即位し、ブルボン朝フランス王国が建国されます。

それ以前のヴァロア朝の国王たちはより南のロワール川流域に住居を構えていたのに対してブルボン朝の国王はパリに定住し、町を発展させました。

後に太陽王と呼ばれたルイ14世の時代にパリ郊外のベルサイユに宮殿を築き、これ以降フランスの政治的中枢部はベルサイユに移ります。

この頃のパリには約50万人の人々が住んでおり、世界有数の大都市となっていました。

ルイ14世の孫のルイ16世の代にフランス革命が起こります。

革命後の混乱が収まり、ナポレオン・ブオナパルテによって帝政がしかれた西暦1804年のパリの人口は55万人となっていました。

このナポレオンの時代からルイ・ナポレオンの第二帝政、そして第三共和政の時代にかけてパリでは近代的な都市計画が採用され、古い街並みを取り壊して太い道路を作り、上下水道を完備するなど、近代都市として生まれ変わりました。

パリの中心部であるセーヌ川沿いのカフェに文豪や学者が通うようになったのもこの時代です。

帝政、共和制と政治体制が目まぐるしく変わる中、パリは順調に発展を続けました。

第一次世界大戦、第二次世界大戦時にはパリも戦火にさらされ、町にも被害が出ます。

第一次世界大戦では占領を免れたものの、第二次世界聖戦ではナチスドイツの電撃作戦の前にフランスは降伏し、パリも占領されてしまいました。

第二次世界大戦の後半、連合軍によるパリ奪還作戦が発動したときに、パリのドイツ軍司令官は本国から徹底抗戦、敗北の場合には町を破壊せよとの命令を受けていましたが、この命令を実行に移さず、パリの無血開城を実現させました。

この功績によって司令官は戦争犯罪人としての訴追を免れ、またパリからは名誉市民の称号を与えられました。

長い間このエピソードは美談として語り継がれてきましたが、最近の研究結果によれば、そもそも都市破壊作戦を実行するほどの攻撃兵器を保有していなかったのではないかという説が浮上してきています。

また、司令官は単に自らの保身を計っただけであり、パリに被害を出さないための行動ではなかったという説もあります。

しかし、どのような真実があったとしても、この司令官の行動によって町と一般市民mに大きな被害が出なくてすんだことは変わりようのない事実です。

第二次世界大戦後のパリはヨーロッパの経済的中心地として現在でも発展を続けています。

代表的建造物

ルーブル宮殿とオルセー美術館

ルーブル宮殿はもともとフランス王の宮殿だった建物を美術館として使用しています。

世界三大美術館とも言われるルーブル美術館には歴代のフランス国王が世界中から集めた絵画、彫刻、磁器、漆器などさまざまなコレクションが展示されています。

中でももっとも有名なものはレオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザでしょう。

モナリザは見学客が絵に近づきすぎないようにロープで隔離されています。

距離もあり、細部までじっくり鑑賞することが難しい状況ではありますが、毎日世界中から多くの人々がこの絵を見るためにここを訪れています。

オルセー美術館もやはりパリ中心部にある美術館で、ここには印象派の画家の作品が数多く展示されています。

ルーブル美術館と比較するとやや知名度では劣るオルセー美術館ですが、モネ、ルノワール、ゴッホ、ゴーギャンなど世界的に有名な画家の作品が数多く展示されていて、やはり多くの人々がここを訪れています。

コンコルド広場

エジプトのルクソール神殿にあった一対のオベリスクの内の一方である「クレオパトラの針」と呼ばれるオベリスクが立っているのがコンコルド広場です。

この広場はフランス革命時にルイ16世と王妃マリー・アントワネットがギロチン処刑されたことで有名です。

シャンゼリゼ通り

先ほどのコンコルド広場から、有名な凱旋門のあるシャルルドゴール広場まで続いているのがシャンゼリゼ通りです。

この通りは世界で最も美しい通りとも言われています。

通り沿いには数多くのブランド店や高級レストランなどが立ち並び、多くの観光客が訪れる人気スポットとなっています。

エッフェル塔

パリ万博の時に建てられた鉄塔がエッフェル塔です。

建設当時はパリの景観を損なう醜悪な建物と言われていたエッフェル塔ですが、現在ではパリを代表する建物として市民にも愛されています。

お役立ち情報

こちらではパリのセーヌ河岸観光に役立つ情報や豆知識をお伝えします。

セーヌ川クルーズ

世界遺産でもあるセーヌ河岸を楽しむのに最もおすすめできるのは観光船でのクルーズです。

運行会社は4社あるのですが、バトーパリジャンという会社のクルーズでは日本語の音声ガイドが用意されています。

しかしこの会社のクルーズを予約する場合は日本語に対応していませんので、英語で予約しなければなりません。

日本語で予約したいという方にはバトームーシュという運行会社がおすすめです。

この会社のクルーズでは日本語の音声ガイドはありませんが、そこはガイドブックを持参すれば問題ないかと思います。

どの運行会社でも料金は15ユーロ程度です。

最後に

いかがでしたか。

これをきっかけにパリのセーヌ河岸に興味を持って頂けたなら幸いです。

パリの人気観光スポットが終結している場所でもありますので、ヨーロッパを訪れた方のほとんどは行ったことがある場所が含まれているかと思います。

凱旋門、エッフェル塔、ルーブル美術館は世界中の観光客にとってパリで外すことのできないスポットとなっています。

シャンゼリゼに行かないのならパリを訪れる意味が無い、という方もいらっしゃる程ですし、多くのガイドブックもシャンゼリゼを中心にパリを紹介しています。

もしヨーロッパへのご旅行をお考えでしたら、是非優雅な一時をパリのセーヌ河岸でお過ごしください。